福澤桃介 (FUKUZAWA Momosuke)

福澤 桃介(ふくざわ ももすけ、1868年6月25日 - 1938年2月15日)は、日本の実業家、政治家。
旧姓は岩崎。

概要
武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越市で育った。
慶應義塾に在学中、福澤諭吉の養子になり、後に諭吉の次女、房(ふさ)と結婚した。
1888年に渡米し、ペンシルバニア鉄道の見習をした後、帰国。
北海道炭礦汽船、王子製紙などに勤務。

しかし、肺結核にかかり、1894年から療養生活を送らざるを得なくなる。
療養の間、株取引で蓄えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。
当時は日清戦争の最中で、日本の勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。
療養により病状が好転し、株で得た金を元手に実業界に進出する。
いみじくも、その後、相場は暗転した。

1906年瀬戸鉱山を設立、社長に就任。
木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡 (岐阜県)に八百津発電所を築いた。
これらを始めとして、1924年には恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井ダムを、1926年には中津川市に落合ダムなどを建築し、また矢作水力(今の東亞合成)、大阪送電などの設立を次々に行う。
1912年に読書発電所の工事用として架けた橋は後に桃介橋と呼ばれ、1993年に近代化遺産として復元、1994年には発電所とともに国の重要文化財に指定された。

1920年には、大阪送電を改組する形で、五大電力資本の一角たる大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現中部電力)を設立、社長に就任した。
この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。
1922年には東邦瓦斯(現東邦ガス)を設立した。
ほかにも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わった。
ほか、大同特殊鋼、日清紡績などの一流企業を次々に設立した。
その後代議士にもなり、政友倶楽部に属した。

千種区覚王山の日泰寺舎利殿参道には、桃介の功績を偲んだ「追憶碑」がある。
碑文には、次のように刻まれている。
「福澤桃介君は天縦の奇才にして、火力のみに依存していた電力供給を尾張信濃の渓谷を四萬年駄々と亜流していた河水を電力に変えた。」
「数百万家庭並びに大小幾百数千の工業を供給誘起、名古屋を日本第三の都会となした」

後年は「日本初の俳優」川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活であった。

その他
関東大震災の影響で金融の道が閉ざされた時には、対日感情が悪化しつつあったアメリカに乗り込み、前代未聞の2万5千ドルもの外資導入に成功している。
彼は前大統領ウィリアム・H・タフト、モルガン財閥の大番頭ラモンドら政財界の大物らを前に、世界最大の富強を誇るアメリカを称えた。
その後で、「しかし、アメリカは、黄金の毒素によって、今にローマのように衰亡する道を歩いている」と即興の演説を始めた。
「そのアメリカから、金の毒を、わずかながら取り出してやろうとする私は、実は貴国から感謝されていいはずです」とぶち上げ、大喝采を受ける。

桃介の電力事業の評価は極めて高い。
発電所のモニュメントには元老山縣有朋・西園寺公望のみならず、発明王トーマス・エジソン、フランス前首相ジョルジュ・クレマンソー、無線電信の発明者グリエルモ・マルコーニらが賞賛のメッセージを寄せている。

[English Translation]