福澤諭吉 (Yukichi FUKUZAWA (educator))

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、天保5年12月12日 (旧暦)(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士)、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
また、専修大学(当時の専修学校)の創設にも尽力した、明治六大教育家のひとり。

現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的であり、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでも「福沢諭吉」と表記されている。
なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。
諱は範(はん)。
字は子囲(しい)。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。

経歴

天保5年12月12日(1835年1月10日)大坂堂島浜(大阪府大阪市福島区福島 (大阪市)1丁目・通称 ほたるまち)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。
父は、大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあったが、儒教に通じた学者でもあった。
しかしながら身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。
そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制には疑問を感じていたと述べている。
なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。
後、福澤の実家に復する。

天保6年(1836年)、1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津で過ごす。
親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。
初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。
しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさった。

安政元年(1854年)、19歳で長崎市へ遊学して蘭学を学ぶ。
長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。
黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。
長崎の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。

適塾時代(大坂)

安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。
しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。
すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。
そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、蘭学者、緒方洪庵の適塾で学ぶこととなった。
ところが腸チフスを患い、一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。
同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。
しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。
学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch 1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)には適塾の塾頭となった。
適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験などをしていた。
ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。
適塾は医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。

江戸へ

安政5年(1858年)、江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)を伴い江戸へ出る。
築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。
この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜市の見物に出かける。
しかしそこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。
それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。

同年の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 (USS Powhatan (1850)) で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣することが決定した。

渡米

万延元年(1860年)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守の従者として、アメリカ合衆国へ渡る。
なお咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。
後に福澤は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている。
なお当時、福澤と勝海舟はあまり仲が良くなかった様子とされる。
一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けている。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。
たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに子孫はいない)。
福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。

帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。
これは福澤が初めて出版した書物である。
この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。
また、再び鉄砲洲で講義をおこなう。
しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。
また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。
これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。
この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。

同じ年の冬、竹内下野守を正使とする使節団を欧州各国へ派遣することとなり、福澤もこれに同行することとなった。
その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰っている。
ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。
たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてである。
これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。

帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。
一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えた。
またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して『西洋事情』(初編 巻之二)中に「」として掲載して日本に伝えた。

渡欧

文久2年(1862年)には香港、シンガポール、インド洋、紅海、地中海ルートでマルセイユに上陸。
リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、デン・ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物した。
なお、オランダのユトレヒトを訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。

慶応3年(1867年)には横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.にも到達した。

維新後

慶應4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。
維新後も洋学の普及を主唱、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。

明治13年(1880年)、専修学校(現・専修大学)の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。

明治14年(1881年)の明治十四年の政変で政府要人と絶交。

明治15年(1882年)には日刊新聞『時事新報』を創刊し、不偏不党の理念のもと、世論を先導した。

明治31年(1898年)9月26日に脳出血で倒れ、いったん回復した。
明治33年(1900年)8月8日に再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復した。

明治34年(1901年)1月25日に再び脳出血で倒れ、2月3日に再出血し死去した。
葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信のものだけは黙って受け取ったという。


福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。
戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺 (東京都港区)にその墓がある。
命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。

昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ(死蝋)化して残っているのが発見された。
外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。
学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。

人物・思想

福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。
その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。

ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った。

上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。
その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた清や李氏朝鮮の支配層にも向けられた。
一方で、榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある。
(『瘠我慢の説』)

晩年の自伝である『福翁自伝』において、市中の人々が身なりの汚い適塾の塾生を避ける様子について「何か穢多でも出て来て夫れを穢(きた)ながるやうだ、如何も仕方がない往来の人から見て穢多のやうに思ふ筈だ」と記している。

宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。
卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。
子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている。

銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。

会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。
借方貸方という語は福澤の訳によるもの。

日本に近代保険制度を紹介した。
福澤は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。

1984年~2004年の日本銀行券D号1万円札、2004年~のE号1万円札の肖像にも使用されている。
そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。
このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。

現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年)11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。
その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった。

慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される。

アジア近隣諸国に対して

後年、福澤はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であるとの批判を受けた。

これに対して、平山洋の『福沢諭吉の真実』(文春新書、文藝春秋)によれば、それは『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明が原因という。
平山によれば、福澤は支那(中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。
だが、たとえば清の兵士をブタになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。

もっとも、福澤が(原案を)立案し、筆記は別人がおこなったことがはっきりしている作品も存在するため、すべて石河の仕業と見ることには無理がある。

一方福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。
李氏朝鮮の金玉均などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞『漢城周報』へと発展する『漢城旬報』(漢字表記)の創刊にも私財を投じて関わっている。
また朝鮮からの留学生も1881年(明治14年)6月から慶應義塾に受け入れている。

日清戦争に関して

日清戦争は、明治27年(1894年)7月から同28年(1895年)4月にかけておこなわれた。

福澤は『時事新報』1894年8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。

晩年の自伝『福翁自伝』の「老余の半生」では、次のように述べている。
「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。」
「命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻制や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。
1874年に発足した慶應義塾幼稚舎が1877年以降しばらく男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。
なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。

『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。
この公娼論は、中間搾取者や闇社会の存在を許さないためのものであり、衛生上も公が厳密に管理すべきというものであった。
しかし、その娼婦に対しては「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」と罵り、隠れて遊べといっている。

居合の達人

福澤は、若年の頃より立見新流居合の修練を積み、成人の頃に免許皆伝を許された居合の達人であった。
ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。
無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・山岡鉄舟の思想と似ている。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。

日清戦争の頃、新聞社が当時存命していた幕末の「剣客」たちの座談会を企画した。
席上、物故存命を問わず誰が最強であったかという話題になった時、出席者の全員が一致して「それは福澤だ」と言ったというエピソードがある。

明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた(『福翁自伝』)。
はやりものに対してシニカルな一面も伺える。

撃剣興行が盛んな頃、弟子の一人が「すごい剣の名人がいる」と騒ぎ立てたため、その演武を弟子と見に行ったら「あんなものたいしたことはない」といい、帰ってからそれ以上の演武を弟子に見せ、驚嘆させたというエピソードがある。

福澤と勝海舟

福澤諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。
戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという。

『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。
勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いていおり、現在では大局として徳川家という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。

現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。
これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。

なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある。

当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。
だが勝は福沢が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、福沢は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。
瘠我慢の説発表はこの後のことである。
また、福翁自伝で福澤は借金について以下のように語っている。

「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」

西洋医学

土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。

『蘭学事始』の出版

杉田玄白が記した『蘭学事始経緯』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。
そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。
さらに、明治23年(1890年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。

北里柴三郎への支援

明治25年(1892年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里を所長に迎えた。
明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。
移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男福澤捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。
明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎と森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。

慶應義塾医学所の創設

明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。
そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に医学所を開設した。
所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。
また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。
残念ながら明治13年(1880年)6月、医学所は閉鎖されることになった。

しかし、福澤の死後15年たった大正5年(1916年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。

主な著書

『西洋事情』

『西洋旅案内』

『窮理図解』

『世界国尽』

『学問のすすめ』

『ひびのおしえ』

『文明論之概略』

『通俗民権論』

『通俗国権論』

『民情一新』

『時事小言』

『福翁自伝』

『福翁百話』

『福翁百余話』

『修業立志編』

『瘠我慢の説』

『丁丑公論』

「著作集」全12巻が慶應義塾大学出版会で2003年に刊行された。

著書翻訳

福澤諭吉『An Outline of a Theory of Civilization(文明論之概略)』、慶應義塾大学出版会、2008年11月。
ISBN 4-7664-1560-4

記念行事

2009年、「慶應義塾 創立150年記念 『未来をひらく 福沢諭吉展』」が、東京国立博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館において開催されている。

[English Translation]