穴山信君 (ANAYAMA Nobukimi)

穴山 信君 / 穴山 梅雪(あなやま のぶきみ / あなやま ばいせつ)は、戦国時代 (日本)の武将である。

生涯

天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。
幼名は勝千代(かつちよ)。
母は武田信虎の娘で武田信玄の姉。
妻・見性院 (穴山梅雪正室)は武田信玄の娘。
壮年期に出家し梅雪斎不白と号した。
武田左衛門とも称する。
武田二十四将の一人に数えられる。

穴山氏は信玄の代以前から武田一族として優遇された。
代々武田氏と婚姻関係を結ぶ親族衆の重鎮であり、武田姓の使用を許される名門であった。
下山城(現在は本国寺(山梨))を居城とし、河内地方(甲斐巨摩郡南部地域(現在の南巨摩郡身延町周辺))・西八代郡の一部(現在の南巨摩郡身延町下部近辺))の他に巨摩郡北部の穴山(現在の韮崎市中田町及び穴山町周辺)等を領地とした。
巨摩郡南部地域・八代郡には武田宗家より独立した、穴山氏により独自に運営される金山も持つ。

川中島の合戦など、信玄による主要な合戦に参加している。
永禄12年(1569年)、武田氏が駿河国を巡り後北条氏と対立した折には、武田軍本隊が甲斐に退却した後も興津城に踏み止まり、武田氏が駿河へ再侵攻する足掛かりとなった。

のちに山県昌景の後任として江尻城代となる。
俗に駿州探題。
江尻城に城下町を形成し、輸送ルートを整備して商業政策を進めるなど、内政手腕に優れていた。
また、外交にも多く携わった。

信玄の死後

信玄の死後、従兄弟の武田勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には勝手に戦線を離脱。
『甲陽軍鑑』によると、これに怒った高坂昌信が勝頼に信君を切腹させるべきだと意見したが、親族衆の重鎮である信君を処断することで家中が分裂することを恐れ、勝頼はその意見を退けたとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の武田征伐による土壇場に至って勝頼を裏切り、徳川家康を通じて信長に内応した(数年前から徳川との接触があったとする説もある)。
一説に旧領の安堵(河内・江尻領)、および武田家の存続を条件に内応したと伝えられている。

裏切りの原因については、勝頼との対立の他に、かつての武田義信によるクーデター事件が関係しているとも(弟信邦は義信側に味方したことにより自害)、妻の見性院が諏訪氏の血を引く勝頼よりも、自らが生んだ穴山信治(勝千代)の方が武田家当主に相応しい(信治は武田氏の血を3/4継いでいる)と夫に勧めたためだとも言われるが、いずれにせよ確証はない。
ともかく、信君の裏切りは武田諸将に衝撃を与え、武田氏滅亡の一因となる。

信君の最期

戦後は信長から所領を安堵されたので、御礼を言上するため家康とともに上洛する。
堺市(大阪府)を遊覧していた際に本能寺の変が起こったため、急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、『三河物語』によると、金品を多く持っていた信君一行は、家康従者に強奪されることを恐れて別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川 (京都府)河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたとされる。

一説に徳川家康が命じて殺したとされるが、変後には嫡子信治に家督を継承させており、また、妻の見性院も丁重に遇されている。
当時、家康自身の命が危険だった状態であり、他人の暗殺など考える暇があったとは考えられず、信憑性に乏しいと思われる。

穴山氏は、嫡男である穴山勝千代(武田信治)が天正15年(1587年)に急死したため断絶した。

その他

武田一族にも関わらず土壇場で勝頼を裏切ったことから、同じく信玄の娘婿でありながら織田家に寝返った木曽義昌や滅亡寸前に裏切った小山田信茂らと共に否定的評価がある一方で、佐藤八郎など家名存続のため敢えて背いた情勢判断を正当視する好意的評価や、矢野俊文による武田氏と国人領主の穴山や小山田の関係が連合政権であるとする立場から、滅亡に際して個別領主の立場から離反に至ったとする見解もある。

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