細川幽斎 (HOSOKAWA Yusai)

細川 幽斎/細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい/ほそかわ ふじたか)は、戦国武将、歌人である。
幼名は萬吉、通称は与一郎。
兵部大輔、侍従、二位法印。
幽斎玄旨と号した。
足利将軍家の奉公衆三淵晴員の次男で、母は著名な儒学・国学者清原宣賢の娘・智慶院。
晴員の兄の和泉国守護細川元常の養子となる。
正室は若狭国熊川城主沼田光兼の娘・麝香。
嫡男に細川忠興がいる。

初め13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後国宮津市11万石の大名となる。
後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となった。

また、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人でもあった。
後に、正統伝承者である三条西公国(実枝の子)、その子三条西実条に返し伝授をする。

幕臣時代

天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都市東山区に生まれる。
天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(晴員の兄)の養子となった。
天文15年(1546年)、将軍足利義藤(後に義輝)から偏諱を受け、藤孝と名乗る。
天文21年(1552年)、従五位下兵部大輔に叙任され、天文23年(1554年)、養父・元常の死去により家督を継いだ。

幕臣として将軍義輝に仕えるが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。
その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。

織田信長時代

永禄11年(1568年)9月、藤孝は足利義昭を奉じて織田信長が入京するのに従い、さらに山城国勝竜寺城を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国や摂津国を転戦した。

義昭と信長の対立が表面化すると使者として両者の仲介に奔走したが、元亀4年(1573年)3月に義昭が挙兵するとこれを諫めて聞き入れられなかったため、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。
義昭が京都を追放された後は信長に臣従し、7月に山城国桂川の西、長岡一帯(現長岡京市、向日市付近)を与えられた。
8月には池田勝正とともに岩成友通を山城国淀城の戦いで滅ぼすという功績を挙げ、以後信長の武将として畿内各地を転戦した。

石山合戦、紀伊国雑賀攻めのほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力として活躍した。
天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和国信貴山城を光秀とともに落として功績を挙げた。
天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)の婚儀がなる。
天正8年(1580年)に単独で丹後国に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗、光秀の加勢によってようやく平定に成功し、信長から丹後11万石を与えられ宮津城を居城とした。

本能寺の変以後

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は長年の僚友であり縁戚でもある明智光秀の再三の協力要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して隠居、忠興に家督を譲った。

この後も、光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。
天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州征伐にも武将として参加した。
また、豊臣家の奉行石田三成とともに薩摩国の検地を行ったりもしている。
文禄4年(1595年)には大隅国(のち越前府中に移封)に3000石を加増された。

幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇された。
忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。
一方、徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺城 (丹後国)を守る。
7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自殺した。
田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となった。
幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は7月、8月の二度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。
使者を通じて古今集証明状を八条宮に贈り、源氏抄と二十一代和歌集を朝廷に献上した。
ついに八条宮が兄・後陽成天皇に奏請したことにより中院通勝、烏丸光広、三条西実枝が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。
幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得たが、幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。
慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。
享年77。

幽斎の所領6000石は死後に整理されたが、そのうち3000石分は慶長9年(1604年)に父忠興から廃嫡された幽斎孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料として相続された形となった。

墓所

京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の搭頭寺院である天授庵に墓がある。
忠興の子・細川忠利以降、子孫は肥後国熊本藩54万石の藩主となったため、熊本市黒髪の立田自然公園(泰勝寺跡)にも廟所がある。

人物・逸話

12代将軍・足利義晴の落胤であるという説がある。
この説が事実なら、足利義輝・足利義昭の庶兄にあたることになる。

永禄の変の後、義昭に従って流寓していたころ、貧窮して灯篭の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴するほどであったという。

織田信長に臣従したときに山城国長岡を拝領し長岡(ながおか)を称した。
関ヶ原の戦いの後は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。

幽斎は、剣術等の武芸百般、和歌、茶道等を修める当代随一の教養人でもあった。
剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘、日置流雪荷派から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊 (若狭武田氏)から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。
膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。

三条西実枝に古今伝授を受け、三条西公国に伝えるまでの間、二条派正統を一時期仮に継承した。
当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いのときに後陽成天皇が勅命で幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためと言われる。

門人には後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王、公家の中院通勝、烏丸光広などがおり、また松永貞徳、木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。
島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が義昭に仕えていた頃から交流があった。

八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、幽斎の孫で熊本藩主となった細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)に大正時代に移築されている。

妻を愛し、側室を置かなかった。
親友ともいえる明智光秀も同じく、正室ひとりにとどめて側室を置かなかった。

主な著作物

衆妙集
詠歌大概抄
古今和歌集聞書
百人一首抄
九州道の記
東国陣道の記

関連書籍

「幽斎玄旨」(佐藤雅美-文藝春秋)

[English Translation]