結城朝光 (YUKI Tomomitsu)

結城 朝光(ゆうき ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前半にかけて活躍した武将で、鎌倉幕府の有力御家人。
書物によっては小山 朝光(おやま ともみつ)と記されている場合もあるが、結城氏の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。

本姓は藤原氏。
家系は鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする小山氏の流れであり、父は下野国小山の豪族・小山政光。
母は源頼朝の乳母としても知られる寒河尼。

生涯

治承4年(1180年)10月2日、平氏打倒に挙兵した頼朝に母寒河尼の引き合わせで臣従し、頼朝が烏帽子親となって元服する。
寿永2年(1183年)2月23日、鎌倉への侵攻を図った源義広 (志田三郎先生)と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父小山政光、兄小山朝政、弟長沼宗政ら共に野木宮合戦で破る。
この論功行賞により結城郡の地頭職に任命される。

元暦元年(1184年)、源義仲を追討するための源範頼・源義経軍に参加、宇治川の戦いで木曽軍を討滅した後、平氏追討軍に参加、文治元年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いまで戦う。
鎌倉に帰還後、同年5月、戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝える。

文治3年(1187年)、伊勢国山田御厨の代官狼藉事件で譴責された畠山重忠の処分について、頼朝に意見具申し、その危急を助ける。
文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍、阿津賀志山の戦いで、敵将・金剛別当を討ち取るなど活躍。
その功により奥州白河三郡を与えられる。
翌建久元年(1190年)、奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加し、以後梶原景時と並ぶ頼朝の側近と目されるようになった。

頼朝没後間もない正治元年(1199年)10月、いわゆる「梶原景時讒訴事件」(梶原景時の変)において窮地にたたされた朝光は、三浦義村ら有力御家人66人を結集して「景時糾弾訴状」を連名で作成し、二代将軍源頼家に提出。
梶原景時失脚とその敗死に大きな役割を果たした。

承久3年(1221年)の承久の乱にも東山道軍の将のひとりとして参戦。
乱後の北条泰時・北条時房による「複数執権制」時代にあって、寛喜元年(1229年)上野介に叙任。
嘉禎元年(1235年)、幕府の評定衆の一員となり幕政に重きを成した。

若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。
信仰に生きる日々を送り、北条時氏から北条時頼へ続く鎌倉幕府の内紛に関与する事はなかったが、宝治元年(1247年)の宝治合戦で知己の仲であった三浦義村の子三浦泰村の一族が滅亡した際には、老齢の身を押して下総から鎌倉に上り、執権時頼に面会して「自分がいれば泰村を誅罰の恥に会わせなかったものを」と涙し、時頼は古老の涙を愛しんだという。

建長6年(1254年)、87歳で穏やかなうちに生涯を終える。

人物

梶原景時とともに頼朝の側近として幕政に参与し、弓の達人で和歌にも通じた文武両道の人物として知られた朝光であったが、尊敬していた畠山重忠の死に遭遇してからはより慎ましい生活態度を取るようになり、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったと言われている。
こうした姿勢が「梶原景時讒訴事件」における御家人の動向や晩年の北条氏からの厚遇につながったとされている。

一方で朝光の性格は非常に誇り高く、将軍家の門葉であり、北条氏とも縁戚である御門葉の足利氏と対立したこともあるなど気骨のある武将であった。
足利氏の当主 足利義氏より結城家に使わされた書簡の末尾に「結城上野入道殿 足利政所」と記してよこした。
通常、対等の関係であるならば、「結城政所殿 足利左馬頭入道」と記すべきところではあったが、足利氏は将軍家の門葉として源姓を称することを許されており、このような書式を用いることを許されていた。
しかし、足利氏より格下ととらえられたことに激怒、「結城政所 足利左馬頭入道殿」と記して返書した。

これに対して、足利家より幕府に訴えがあり、このような書式は源氏の門葉たる足利氏に許されたものであり、御家人に過ぎない結城氏は遠慮すべきである旨を主張した。
これに対して、朝光は、生前の頼朝より「足利氏と同等たるべし」との許しを得ていたと主張し、時の執権 北条時頼の裁定により朝光の勝訴となった。

落胤説

なお、朝光には頼朝の庶子であるという説がある。
『朝光公記』によれば、伊豆配流中の頼朝の世話をしていた寒河尼の娘との間に生まれ、寒河尼の実家・八田氏へ預けられた後、小山政光と寒河尼の三男(四男説もある)として育てられたというのが、その伝説の筋であるが、幕府の公式記録『吾妻鏡』をはじめとする当時の一級資料には、一切、このことには触れられていないことから、推測の域を出ないというのが大方の見方である。
ただし、頼朝が朝光を可愛がっていたことは事実である。

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