織田信孝 (ODA Nobutaka)

織田 信孝(おだ のぶたか)は、安土桃山時代の武将・大名。
織田氏の一族。
伊勢国中部を支配する豪族神戸氏を継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも称する。

生涯
信長存命中
永禄元年(1558年)、織田信長の三男として生まれる。
母は側室の坂氏。
(伊勢鹿伏兎氏庶流あるいは尾張千秋氏の所縁か。また『一豊公御武功記』によると二宮一楽斎が信孝母方祖父とされている。)
幼名は三七(3月7日生まれだったためとも)と言われる。
実は次男織田信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたと言われる。
しかし坂氏は伊勢国随一の豪族関氏平姓関氏の庶流鹿伏兎氏の庶流にあたり、けっして生駒氏に見劣りする出自ではない。
本来兄の信孝が信雄よりも信長亡き後の織田家一門の筆頭に相応しいという正嫡性の強調のため、あるいは兄である信雄に逆らったことを正当化するための意図的な創作話ではないかといわれ、実際は信孝が信雄より後に生まれたのではないかといわれる。
また、信孝誕生を永禄元年(1558年)4月4日とする説もある。
生まれた場所は母方大叔父と言われる尾張衆(津島衆)の岡本良勝の屋敷とされている。

永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となり、具盛が信長によって隠居させられた後の元亀3年(1572年)に神戸氏を継ぐ。
養子入りに際しては幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣から岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が信孝付きとして付けられた。
このほか関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏ら諸氏が与力とされた。

相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。

天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけて、伊勢国長島一向一揆平定戦、越前一向一揆平定戦に参加する。
天正5年(1577年)の紀州征伐、天正6年(1578年)には荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している。
行政官としての活動もあり、天正8年(1580年)には村井貞勝を補佐して在京し禁裏との交渉にあたった。
同年7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすため、信長を京に迎えている。
このころか丹波国、丹後国を所領として与えられたようであり、丹波衆、丹後衆に出した中国攻めの触書が存在する。
同時に伊勢では神戸城の拡張工事に着手、五層の天守閣や多数の櫓を持つ近世城郭を完成させた。

天正10年(1582年)に四国征伐の総司令官に任ぜられた。
(四国征伐は信孝の強い希望によって実現したともいう。神宮文庫所蔵文書には『三七様連々お望み候四国へ・・・』との文言のある文書が存在する。)
所領北伊勢、河曲・鈴鹿の二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織した。
副将には織田氏の宿老丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付された。
なお、四国征伐にあたって、信孝は三好康長の養子になることが決定され、神戸具盛は再度神戸氏の当主扱いになったようである。
しかし、養子の話は破談となり、この際に新たに一家を興した。

信長死後
堺市にて渡海の準備中である6月2日に本能寺の変が勃発したが、逃亡兵が相次いだため積極的な行動はできず、明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を殺害した程度であった(しかし信澄が本能寺の変に加担した証拠は存在しない)。
その後、摂津国富田 (高槻市)で「中国大返し」後の豊臣秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。

信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、清洲会議において織田氏の後継者は甥の織田秀信に決まる。
信孝は三法師の後見役として兄織田信忠の領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。
その後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。
こうして織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、同年12月、三法師を擁し秀吉に対して挙兵する。
しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、人質を出して三法師を秀吉に引き渡した。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。
しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。

信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町 (愛知県))の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、自害した。
享年26。
首は神戸城では受け取りを拒否され、検視大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰った。
寺では首塚を作り手厚く弔った。

命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。

辞世の句
辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句である)。
しかしたしなみある武将の信孝が、このような稚拙で露骨な辞世の句を残したとは考えにくく、この辞世の句が信孝の残したものかどうかは疑問である。
切腹の際に怒りのあまり臓物をなげつけたという説もあるが、医学的検証からそのようなことは不可能であること、腹に刀をいれたとたん介錯するという作法があることから、そういった逸話とともに創作された辞世の句か落首の類とも考えられる。

子孫
秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・坂氏と妹、娘および側室神戸の板御前は、秀吉によって殺されている。
このとき同じく人質に出されていた重臣岡本良勝、幸田彦右衛門尉両人の母も処刑されている。
このほか男子某が切腹時に処刑されている。

このほか娘一人があり、織田信衡の正室となったという。

信孝の曾孫(神戸信茂の子)信章は越後高田松平家当主松平光長に仕え、高田藩士として存続したという。
高田では神戸三郎右衛門と称し、新田開発に功があったという。
嫡男半助長経の存在も伝わるが、それ以降は不明である。
藤沢宿に伝わる伝承には信孝の側室小妻氏の子織田信豊の次男織田信国の子孫と称する家(川上氏)も登場、現存している。
信国は伊勢で出生し、成人後武者修行に出て藤沢宿に至ったという。
徳川旗本となった織田氏の一族には、信豊を家祖として系図に記載する家が少なくない。
これらの子孫、末裔が本当に信孝の血筋であるのかは不明である。
貴種流離譚と考えられる。
ただし、信孝は侍従にまで昇進した殿上人であり、貴人が血統を保存するために側室を持つことが当然だった当時からすると側室、側室所生の子が存在し、徳川の世になってから世に出たとするのは的外れではないとも考えられる。

明治25年11月24日付の「読売新聞」に、大阪府の平民が宮内大臣に系図などを添えて、信孝の嫡流、10世の子孫と称し、名乗りでたという記事を掲載している。

このほか岐阜に神戸氏を名乗る子孫があり、廣瀬氏などの分家を輩出しているという。

人物
信長の息子たちの中で一番容貌が父に似ていたと言われ、英雄百人一首に描かれている肖像は(服装を除けば)若き日の信長に酷似している。

当時の資料によればその人物評は高く、「思慮あり、緒人に対して礼儀正しく、また大なる勇士である」(耶蘇会年報)「信孝もまた将軍の息男にして、智勇人に超えたり」(天正記)と記されている。

キリスト教のイエズス会に対する造詣が深く、宣教師からは「彼(織田信孝)はデウスのことをよく悟り、諸侯及び大身等と共に居る時、常にデウスのことを賛美し、しばしばわがガザに来り、パードレ等を大いに尊敬している」とその人物を高く評価されている。

山崎の合戦後に秀吉と並んで朝廷から太刀を授かり、洛中で明智与党の詮議を行い公家衆を震え上がらせていること、秀吉との戦いに際しては飯沼長継など、信孝に内通したとして斬られている秀吉家臣がおり、戦後に秀吉が信孝に仕えた武士を嫌って登用しなかったという事跡も伝わっている。

天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際には信忠・信雄・織田信包に次いで第4位の序列であった。
また跡継ぎの信忠を除けば、連枝衆で地方討伐の指揮を任されたのは信孝のみである。
また信忠・信雄と並んで信長から太刀を拝領している。

[English Translation]