能海寛 (NOMI Yutaka)

能海 寛(のうみ ゆたか、1869年(明治元年) - 1903年(明治36年)?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。

経歴
島根県那賀郡 (島根県)波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。
京都に出て、西本願寺の普通教校で学んだのち、慶應義塾、哲学館(現在の東洋大学)で学ぶ。
哲学館では、南条文雄に多大な影響を受ける。

1893年(明治26年)、『世界に於ける佛教徒』を自費出版し、その中で、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。

1898年(明治31年)に結婚するも、同年11月、上海市に向け神戸港を出港する。

1899年(明治32年)8月、大谷大学教授の寺本婉雅とともに、四川省の巴塘(パタン)からのチベット入りを試みるも、身の危険のため断念する。

1900年(明治33年)8月、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)からのチベット入りを試みるが、やはり、難路と危険によって引き返す。

1901年(明治34年)4月18日、今度は雲南省の大理府から「今からチベットに入るため音信不通となる」という内容の手紙を発信した後、消息を絶つ。

その後、伊東忠太一行がミャオ族の建築物研究に雲南省のチベット国境付近に赴いた。
その際の調査により、能海は1903年(明治36年)ごろに同地で土賊に襲われ死去したらしいということが判明した。

ただ、『金剛般若経』や『金光明経』などの蔵本(チベット語経典)や仏像類などの資料を日本に送っている。
それらの資料は、大谷大学と金城町歴史民俗資料館に所蔵されている。

また、1986年(昭和61年)以降、自坊の浄蓮寺より、自筆の地図、スケッチや、日記などを含む多くの新出資料が発見された。

[English Translation]