脇坂安董 (WAKISAKA Yasutada)

脇坂 安董(わきさか やすただ) は江戸時代後期の大名、老中。
播磨龍野藩第8代藩主。
龍野藩脇坂家10代。

経歴

7代藩主・脇坂安親の次男として生まれ、兄・脇坂安教が早世したため嫡子となる。
天明4年(1784年)、父の隠居により家督を相続した。
その後、寺社奉行を都合二度、更には老中を務めた。
脇坂氏は元外様大名であり、入譜代、つまり外様から願って譜代格に直してもらった家柄ではあったが、外様の家系は幕府の役職には就けないのが慣例であった。
しかし安董は弁舌がさわやかで、押し出しも良く男ぶりも良かったといわれ、これが征夷大将軍徳川家斉の目にとまり、異例のことながら寛政3年(1791年)、寺社奉行に登用された。

この間、安董は谷中 (台東区)延命院 (荒川区)一件、三業惑乱の両事件を裁いている。

「谷中延命院一件」は、大奥女中を巻き込んだ女犯スキャンダル事件である。
当時の延命院住持は日潤といい、歌舞伎役者尾上菊五郎の隠し子だと言われる(異説もある)。
この日潤が多数の大奥女中と密通しているという噂が飛び、享和3年(1803年)、安董は女密偵も使って慎重に内偵を進めた。
5月26日 (旧暦)、みずから延命院に踏み込んで日潤ら破戒坊主を検挙した。
日潤は7月29日 (旧暦)に死刑に処され、一気に令名を馳せた。

「三業惑乱」は、西本願寺の教義をめぐる争論である。
幕府当局は各教団の宗旨や教義をめぐる争論には介入を控えるのが通例であったが、本件では一部信者が本山に集団で詰め掛けようとするなど穏当ならざる騒ぎになったため、事案が寺社奉行にもちこまれたわけである。
安董は真宗大谷派の香月院深励に影響され仏教教義に通暁していたこともあり、かなり突っ込んだ調べを行っている。
双方より聴聞を行い、文化 (元号)3年(1806年)7月11日 (旧暦)、判決を下し、西本願寺に対し宗門不取締の咎ありとした。
しかし、宗教の教義をめぐる争論であることも考慮し、100日間閉門という微罪処分で済ませた。
この脇坂の判決は名裁きであると、老中首座松平信明 (三河吉田藩主)からも賞されている。

このように安董は辣腕ぶりをみせたのだが、自身の妾のことで讒にあって失脚、寺社奉行を辞任する。

その後安董は龍野藩政に専念していたが、16年後、将軍家斉のお声掛りで再び寺社奉行に起用される。
この再起用には幕府内外の事情通も首を捻った。
一説には延命院一件以降も止むことのない大奥女中のスキャンダルに、家斉が業を煮やし、安董再起用によりこれにメスを入れるためだともいわれた。
事実、あいも変わらずスキャンダルまみれの寺社関係者は安董再登場に震え上った。
江戸には、「また出たと 坊主びっくり 貂の皮」(「貂の皮」は脇坂を指す、謂については脇坂安治の項参照のこと)という落首が出回った。
しかし安董はなぜか寺社の風儀紊乱には手をつけず、沈黙を守っていた。

ところで、文政年間より但馬国出石藩の仙石氏では当主の家督相続問題や藩政の運営をめぐって仙石左京と仙石造酒の両家老が派閥をなして対立がくすぶっていた。
天保6年(1835年)になると造酒派の藩士神谷転(かみや・うたた)は脱藩して虚無僧に身を替えて江戸に潜伏し、左京の非道を幕府に訴願する機会をうかがっていたが、左京はいち早く老中首座松平康任に手を回し、康任は南町奉行筒井政憲に神谷を捕縛させた。

しかし虚無僧の管轄は寺社方であり、外見からは神谷が虚無僧に身を替えていたのは信仰を理由としたものか、それとも別の思惑からなのかは判然としない。
そこで事件は寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所に舞台を移し、将軍家斉より、この一件は安董が専管すべしという指図を受け、調査を開始した。
本件は寺社奉行吟味物調役の川路弥吉(のちの川路聖謨)の綿密な調査協力もあり、左京は獄門、出石藩は3万石の減封、また老中松平康任は失脚という形で幕を閉じる(仙石騒動)。

この一件で安董は西丸老中格、将軍世子徳川家定付きに抜擢され、更に本丸老中に昇格する。
が、老中在職中死去。
享年74。
死去が唐突だったため、毒殺説も飛び交った。
家督は長男・安宅が継いだ。
因みに、安宅も老中になった。

年譜(官職位階履歴)
1767年(明和4年)6月5日 生まれる。

1784年(天明4年)4月13日 家督相続。
藩主となる。

1785年(天明5年)12月18日 従五位下に叙位。
淡路守に任官。

1790年(寛政2年)3月24日 奏者番に補任。

1791年(寛政3年)8月28日 寺社奉行を兼務。

1804年(文化 (元号)元年)10月6日 従四位下に昇叙し、中務大輔に転任。

1813年(文化10年)閏10月12日 奏者番御役御免。

1813年(文化10年)11月12日 寺社奉行辞任。

1829年(文政12年)10月24日 寺社奉行及び奏者番に再任。

1836年(天保7年)2月16日 西丸老中格に昇進し、侍従を兼任。

1837年(天保8年)7月9日 老中。

1841年(天保12年)2月24日 死去。

[English Translation]