茶屋四郎次郎 (CHAYA Shirojiro)

茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、織豊時代から江戸時代初期の京都の豪商。
当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしである。
しかし初代、二代、三代目が最も活躍した茶屋四郎次郎といわれている(彼らについては以下で詳述)。

来歴

茶屋家は本姓は「中島氏」。
家伝では「先祖は三河国出身」とされるが定かではない。

初代の四郎次郎清延は本能寺の変後、本国へ逃亡する途中の徳川家康一行を支援し、それがきっかけとなり徳川家御用達商人の一人となった。
二代四郎次郎清忠は江戸幕府御用達商人となる一方、京都町人頭にも任命され権勢を誇る。
三代四郎次郎清次は引き続き幕府御用達商人をつとめ、更に朱印船貿易での特権を獲得し、莫大な富を得る。
その財産によって茶道具を蒐集するなど芸術のパトロンともなった。

この初代~三代までが茶屋家の商人としての絶頂期であり、角倉了以の「角倉家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」と言われた。
しかし鎖国政策や時流の変化に乗り遅れ、江戸時代中期以降はふるわなかった。
江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。

その他
東京福祉大学・理事長の中島恒雄はこの茶屋家の分家・尾張茶屋家(清延の三男を祖とする)の末裔と自称しているとされる。

代表的な当主

初代 茶屋清延(ちゃや きよのぶ、天文 (元号)14年(1545年) - 慶長元年7月27日 (旧暦)(1596年9月19日))

三河国より上京して京都に居を構えて商売を始めた、「茶屋家初代」とされる人物。
「本能寺の変」の際、堺市に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、また、後世に”神君伊賀越”といわれた脱出劇には物心ともに支援を行った。
この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。

二代 茶屋清忠(ちゃや きよただ、生年不詳 - 慶長8年4月1日 (旧暦)(1603年5月11日))

初代の長男。
父の地盤を引き継ぎ徳川家御用達商人をつとめる。
豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。
しかし若くして早世した。

三代 茶屋清次(ちゃや きよつぐ、天正12年(1584年) - 元和 (日本)8年7月16日 (旧暦)(1622年8月22日))

二代の弟で、兄の急逝のため、江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。
江戸幕府の御用達商人を引継ぎ、長崎代官補佐役などを務める。
1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。
本阿弥光悦らと親しく芸術支援にも熱心であったが、35歳の若さで死去。

徳川家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。

[English Translation]