藤原教長 (FUJIARA no Norinaga)

藤原教長(ふじわら の のりなが、天仁2年(1109年)-治承4年(1180年)は平安時代末期の公家。
難波飛鳥井流の始祖・権大納言藤原忠教の四男。
母は民部卿源俊明の娘。
刑部卿藤原頼輔は異母弟にあたる。

右中将、参議、左京大夫などを歴任する一方、歌人・能書家としてもその名を知られ、藤原忠通の書の師範を務めたほどであった。
昇進も順調で、久安5年(1149年)には、自身極位となる正三位に昇っている。

保元元年(1156年)に勃発した保元の乱に際しては、崇徳上皇・藤原頼長に加担。
源為義に対して再三の説得工作を行い自軍に参加させるなど、中心的な役割を担った。
上皇方の敗北後は出家(法名は親蓮あるいは観蓮)・投降し、恭順の意を示したが、赦されず常陸国に配流となった。

乱から六年後の応保2年(1162年)に都に召還され、高野山に入った。
その後、安元年間(1175年 - 1177年)において鹿ケ谷の陰謀や安元の大火といった大事件が相次いだ際には、崇徳や頼長を神霊として祀り、その祟りを鎮めるべきである、と主張したという。

家集として『拾遺古今和歌集』、『貧道集』、著書に『古今集註』、『才葉抄』がある。

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