藤原正家 (FUJIWARA no Masaie)

藤原 正家(ふじわら の まさいえ、万寿3年(1026年) - 天永2年10月12日(1111年11月21日))は、平安時代後期の貴族。
正四位藤原家経の子。
正四位下・弁官。

藤原北家真夏流で式部省・文章博士を勤めた学者である藤原家経の子として生まれる。
少年時代から神童の誉れ高く、『法華経』を毎日50部転読し、数万部を読んだといわれる。
長じてからも学者の道を歩み、対策に及第した。
衛門府・越中国国司を経て1061年(康平4年)に右少弁に任官、1065年(治暦元年)に文章博士を兼ねる。
その後も弁官として昇進を重ね、1080年(承暦4年)に右大弁・勧学院別当。
1087年(寛治元年)には式部権大輔として堀河天皇の侍読を勤める、1095年(嘉保2年)式部大輔。

後三条天皇・白河天皇の時代において大江匡房と並んで双璧の学者とされた(『今鏡』)。
儒学に優れていたことから「儒宗」と呼ばれ、さらには相人としての評判も高かった(『中外抄』『古事談』)。
このように博学多才であった。

歌人でもあり、1051年(永承6年)の『侍臣歌合』を始めとして、『承暦二年内裏歌合』『嘉保元年前関白師実歌合』等に出詠している。
1108年(天仁元年)大嘗祭では主基方の和歌の作者となった。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入首。
また、漢詩文でも大江匡房に並ぶ程の才能であったといわれる。

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