藤原清衡 (FUJIWARA no Kiyohira)

藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏の祖。

出自

陸奥国(後の磐城国)亘理郡の豪族藤原経清と、安倍頼時の娘の間の子として生まれる。
幼名不詳。
なお、亘理経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えている。
そのことから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。

父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏 (奥州)に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。
この時清衡は七歳であった。
敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。

後三年の役

清原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子清原真衡、清衡、異父弟になる清原家衡があったうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。

秀武が真衡に背くと清衡、家衡はこれに同調したため、真衡は陸奥守であった源義家の支援を受けて清衡、家衡を攻めた。
清衡、家衡は大敗して逃走するが、直後に真衡が死亡する。
清衡、家衡は義家に降伏し、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続する。
義家の裁定は清衡に有利なものであったと推測されており、義家が清原氏弱体化を意図し対立を煽ったとする見解が多数存在している。
当然、家衡は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。
義家は難を逃れた清衡に助力し、家衡を滅ぼした。

後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。
時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。
その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。

平泉造営

清衡は本拠地を江刺郡豊田館(現奥州市)に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納する等して、奥羽の統治者としての地位を築いた。
寛治6年(1092年)6月の陸奥守藤原基家 (陸奥守)の解文では、清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられているが、この頃陸奥押領使となったのではないかと推定されている(任押領使を寛治3年(1089年)とする見解もある)。

嘉保年中(1094年 - 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。
1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。

金銀螺鈿をちりばめた中尊寺金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。
ちなみに中尊寺供養願文として知られる文書では、自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現している。

金色堂に眠る藤原四代

金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の藤原泰衡まで四代直系で矛盾はないとされる。
清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。
身長は159cm、手の形は小さく華奢。
四肢の筋はよく発達している。
体形は痩せ形。
レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳溢血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られる。
発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年 - 1119年頃ではないかと推測されている。
没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。

系譜

清衡の妻として「北方平氏」が史料によく現れる。
「北方平氏」は正妻であるとされている。
しかし出自に関しては明らかではなく、父経清の母方である平国妙の縁者、越後国城氏 (平氏)、海道平氏岩城氏、常陸国大掾氏、都の平氏の誰かなど諸説があるがどれも決め手には欠ける。

「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、元永2年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。

なお、『中右記』に見える「兵衛尉清衡」、「平清衡」を清衡のこととし、寛治~康和年間に、妻の姓である「平」を名乗り在京し任官していたとする説がある。

[English Translation]