藤原為時 (FUJIWARA no Tametoki)

藤原 為時(ふじわら の ためとき、天暦3年(949年)頃? - 長元2年(1029年)頃?)は平安時代中期、一条天皇朝の代表的な詩人。
紫式部の父。

刑部大輔藤原雅正の三男で、堤中納言藤原兼輔の孫。
母は右大臣藤原定方の娘。
右馬頭藤原為信の娘と結婚し、紫式部らをもうけた。
菅原文時に師事し、文章生に挙げられ、師貞親王に学問を教え、師貞親王が花山天皇として即位すると式部丞に任じられる。
紫式部の「式部」はこれに由来する。

「本朝麗藻(ほんちょうれいそう)」に13首があり、大江匡衡は、源為憲、源孝道らとともに「凡位を越える詩人」と評した。
新古今和歌集にも1首の和歌が見られる。

日本紀略後編十によると長徳2年(996年)正月25日の除目で淡路国守に任ぜられたが、3日後の28日に藤原道長が参内して、俄に越前国守の除目を受けたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更した。
越前へ赴任するとき娘式部も連れて行ったらしい。
淡路国は下国で越前国は大国。
その収入には雲泥の差がある。

この話は今昔物語集・巻24や、後世の古事談にも載っているが、日本紀略と突き合わせると古事談の方がまだ正確と言われる。
それによれば藤原為時は「苦学寒夜、江涙霑襟、除目後朝,蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上し、一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いたと。
藤原道長が参内してこれを聞き、自分の側近(今昔物語集では乳母子)でおそらくは道長の推挙であろうが越前国守に任じられたばかりの源国盛を呼び越前国守を辞退させて、代わりを藤原為時とする除目を行ったとある。
その時、越前国守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛はショックのあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨国守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまったと。
平安王朝時代の中級貴族と受領を論ずるときに必ず紹介される事例となっている。

藤原為時はその後寛弘6年(1009年)に左少弁、蔵人に就任。
その2年後の寛弘8年(1011年)に越後国守に任じられ息子の惟規も越後国に同行したが、惟規はまもなく現地で亡くなっている。
また、長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後国守を辞任し帰京、一説には直前に紫式部が亡くなったからではないかと言われている。

長和4年(1015年)4月29日に三井寺にて出家。
寛仁2年(1018年)、摂政藤原頼通邸の屏風の料に詩を献じたが、その後の消息は不明である。

[English Translation]