藤原真雄 (FUJIWARA no Saneo)

藤原 真雄(ふじわら の さねお、神護景雲元年(767年) - 弘仁2年7月8日 (旧暦)(811年7月31日)は、平安時代初期の貴族。
父は左京大夫藤原鷹取。

延暦22年(803年)に従五位下に叙せられる。
近江国国司・近衛少将・左馬頭を歴任して平城天皇の側近として近侍した。
清廉で人の悪口を言わず、また武芸に優れ、常に刀剣を帯びて天皇の車駕を守護していたとされる。
大同 (日本)3年(808年)正五位下を授けられる。

薬子の変の際に平城京から伊勢国に脱出しようとした平城上皇の輿を藤原葛野麻呂とともに押し留めて身命を賭して諫言をした。
変の後に捕らえられて伊予国国司に左遷されることとなったが、嵯峨天皇が真雄の忠義の心を知って感銘し、従四位下から正四位下に昇進させた上で格上である備前国守に任命した。
だが、任地で間もなく病に倒れて死去した。

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