蘇我入鹿 (SOGA no Iruka)

蘇我入鹿(そが の いるか)は、大和朝廷の有力者。
大臣(おおおみ)。
大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。

生涯

以下は主に『日本書紀』などの記述による。

青少年期は旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。

父の大臣・蘇我蝦夷の晩年の642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。

同年7月23日には従者が白色のスズメの雛を手に入れた。
雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。
翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。

これにより、実質的にも形質的にも蘇我氏の家督を継いだという見方がある。
しかし、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされた。
入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図った。
しかし、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。
大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。

644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをぞれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。
また、さらに畝傍山に要塞を築いた。
これらについては『日本書紀』は蘇我氏の越権行為と批判している。
しかし、同氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったとの意見、また、古人大兄皇子への皇位継承の準備固めの意味合いだったという意見もある。

これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し。
道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。
しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。
古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・藤原鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。
従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられた。
天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺された。
雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。
この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務める
しかし、赤兄が壬申の乱で流罪になって以降は、蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事になる。

学説

入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。

また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら説)。
しかし、これには反証が試みられている(加藤謙吉)。

関連史跡

飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。
また、2005年11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。

[English Translation]