西寛二郎 (NISHI Kanjiro)

西 寛二郎(にし かんじろう、弘化3年3月10日 (旧暦)(1846年4月5日) - 1月27日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人。
教育総監、遼東守備軍 (日本軍)司令官、軍事参議官等を歴任する。
官位は陸軍大将位階勲等金鵄勲章子爵。

経歴
薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。
戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い等転戦し明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。
初任は陸軍中尉で御親兵2番大隊付を命ぜられた。
同年12月、陸軍大尉に進み1874年12月、陸軍少佐に任ぜられる。
1874年の佐賀の乱には参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍した。
1887年の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。

その後、近衛 (日本軍) 幕僚参謀・参謀本部 (日本)管東局員を経て2月、歩兵第11連隊長に就任し、翌年、陸軍大佐に進む。
大佐として名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。
翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。
この戦役では山地元治中将指揮の下金州区・旅順口区・田庄台を攻略し、その功をもって8月、男爵を授けられ華族に列せられる。

5月に威海衛占領軍 (日本軍)司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として第2師団 (日本軍)長に就任する。
2月の日露戦争に出征し功を挙げ同年6月に陸軍大将に進級する。
同年9月の遼東守備軍司令官を経て5月9日、陸軍三長官の一角教育総監に就任する。
翌年4月には金鵄勲章を受章し、の伏見宮貞愛親王の渡欧に当たっては随員を仰せ付けられる。
帰国後の9月子爵に陞爵し、の軍事参議官の後3月後備役となる。
1月27日薨去。
没後に勲一等旭日桐花大綬章を贈られる。

墓所は東京都港区 (東京都)南青山・青山霊園。

親族

後を嗣子の西勝男が継ぐ。
勝男は陸軍士官学校 (日本)を28期で卒業し階級は陸軍大佐に至る。

寛二郎の娘は佐治喜一陸軍少将に嫁ぐ。

[English Translation]