覚海円成 (Kakukai Enjo)

覚海円成(かくかいえんじょう、生年未詳 - 興国6年/康永4年(1345年)8月12日 (旧暦))は、鎌倉時代末期、南北朝時代 (日本)初期の女性。
安達氏の一族で安達泰宗の娘。
鎌倉幕府9代執権北条貞時の側室。
北条氏最後の当主北条高時の母。
子は他に北条泰家など。
覚海円成は出家後の法名で、実名は不明。
大方殿とも呼ばれる。

生涯

弘安8年(1285年)の霜月騒動で14歳の執権貞時を擁する平頼綱によって安達一族の多くが滅ぼされたが、頼綱が貞時によって誅された後に安達一族の幕府復帰が認められた。
そして庶流であった安達泰宗の娘が貞時に嫁ぎ嫡子高時と4男泰家を産む。

応長元年(1311年)に貞時が死去すると、9歳の高時が北条得宗家の家督を継いで14歳で執権となる。
貞時の遺言で幼主高時の後見を託された内管領の長崎高綱と、高時の舅で外戚の安達時顕が幕政の実権を握った。
元亨3年(1323年)、貞時の13回忌供養で建長寺に華厳塔を建立。

正中 (日本)2年(1326年)3月13日、高時が病のため24歳で出家した事により、得宗家の後継を巡って内管領長崎氏と外戚安達氏の抗争である嘉暦の騒動が起こる。
長崎氏は前年12月に高時の妾で御内人五大院宗繁の妹が産んだ長子北条邦時を押したが、大方殿と安達一門は邦時誕生の際に御産所にも高時の前にも現れず、あきらかに態度で不快を示したという。
安達氏側は高時の弟で大方殿の子北条泰家を高時の後継として押していた。
長崎氏の推挙で北条氏庶流の北条貞顕が中継ぎとして執権となるが、大方殿と泰家が憤って貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、恐れをなした貞顕は出家して執権を辞任した。
大方殿の怒りを恐れて北条一門になり手がない中、北条守時が後任となり、これが最後の北条氏執権となる。
元徳4年(1332年年)4月26日、東慶寺に梵鐘を建立。

元弘3年(1333年) 5月22日、鎌倉幕府滅亡により、高時以下北条一門が自害した後、大方殿は一族の女性たちと共に伊豆国韮山町の地に移り住み、尼寺の円成寺を建立して一門を供養した。
興国6年/康永4年(1345年)8月12日死去。

東慶寺に建立した梵鐘は伊豆国に移されて静岡県伊豆の国市の本立寺 (伊豆の国市)に所蔵されている。

[English Translation]