谷万太郎 (TANI Mantaro)

谷 万太郎(たに まんたろう、1835年(天保6年) - 1886年(明治19年)6月30日)は、新選組隊士。
幼名は万吉。
兄は谷三十郎、弟に谷周平。

来歴

備中松山藩士(旗奉行、120石・役料20石)・谷三治郎供行の二男として備中松山に生まれる。
幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。
安政3年(1856年)10月頃、不祥事案により谷家は断絶となる。

断絶後は、兄三十郎と共に故郷を出奔する。
公卿中山家の侍医・岩田肥後之丞文碩の食客となり、その娘スエを娶り、大坂南堀江町にて道場を開く。

1863年頃、新選組に加盟する。
池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜る。
同年12月の編成では二番組に属する。
大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。
大坂にあって屯所隊長を務めたが、主に別行動をとることが多く、在籍は確認されるものの、兄三十郎の死後に離脱したものと思われる。

維新後も大坂で道場を経営した。
西南戦争では、大阪府知事渡辺昇の推薦で一時は抜刀隊の長に擬せられた。
のちに道場経営に失敗し、商家の用心棒をしながら余生を過ごした。
のち、妻スエと離婚して愛人吉村たみと同棲。

明治19年(1886年)、食道ガンのため大阪にて死去。
享年51。
墓所は、大阪市北区の本伝寺。

来歴

道場の弟子に阿部十郎がいる。

明治後、篠原泰之進と交流を持っている。

武術として種田流槍術、直心流剣術を使った。

[English Translation]