谷衛友 (TANI Moritomo)

谷 衛友(たに もりとも、1563年(永禄6年)- 1628年1月29日(寛永4年12月23日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)から江戸時代前期にかけての武将(大名)。
丹波国山家藩の初代藩主。

豊臣秀吉の古参の家臣であった谷衛好の三男。
正室は木下氏。
子に谷衛成(長男)、谷吉長(次男)、谷衛勝(三男)、谷衛政(四男)、谷衛長(五男)、谷衛冬(六男)、娘(園基音室)、娘(谷某室)、娘(沢瀬某室)、娘(藤江元園室)。
園基音に嫁いだ娘の子に藤原国子(新広義門院、霊元天皇の母)がいる。
通称を甚太郎、官名は出羽守。

略歴
はじめ織田信長、次いで豊臣秀吉に仕える。
播磨国三木合戦においては、敵に討たれた父の仇をその場で討って遺骸を奪い返す等の武勲を立てた。
これを秀吉に賞されて父の遺領6000石を相続、また新たに2ヶ所の所領を賜った。
九州征伐では豊前国巌城攻めにて一番乗りの功名をたて、さらに小田原征伐や朝鮮出兵でも活躍したことから、丹波国山家において1万6000石で封ぜられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、丹波国福知山城主小野木重勝(小野木公郷)と共に西軍に属した。
細川幽斎(幽斎)が守る丹後国田辺城 (丹後国)を攻撃したが、歌道の師匠であった藤孝を積極的に攻める意思は無く、傍観的対応に終始した(田辺城の戦い)。
戦後は東軍に寝返って小野木重次を攻撃し、のち藤孝の取りなしもあって所領を安堵された。

1615年には大坂の役にも参陣し、のち家康の御伽衆を勤める。

寛永4年(1627年)、65歳で死去。
死後、所領は弟や甥に分地され、残り1万石は衛友の死後、四男の衛政へと継承された。

逸話
当時よりその武を高く評価されていたが、細川幽斎の弟子として歌道の心得もあったらしい。

父の大膳亮衛好は、信長にその武勲を賞賛されて「揚羽蝶」の家紋を拝領したが、息子衛友は秀吉から家紋「五三の桐」を賜っている。

硬骨漢で知られ、天下人であった秀吉にも過剰に媚びることなく、堂々と意見するなど渡り合って喧嘩もしたと伝わる。
その後、秀吉自らが酒肴持参で詫びに来た等という巷談も伝わっている。

関ヶ原の戦いの頃、仲間と共に立身を誓い合った天下七兄弟と称されるうちの一人とされる。

田辺城攻めの際は城に向けては空砲を撃っていたらしく、俗に「谷の空鉄砲」という言葉が伝わっている。

関ヶ原戦後、細川忠興が論功を行った際、家臣の一人が具足を拝領している。
その具足の特徴は「頬は谷頬と言って、谷出羽守之面体を御似せてある逸品である」というものであった。
伝説歴史上の剛勇な人物などではなく、当代の人物である谷衛友にわざわざ似せて作られた頬当て(仮面)という品であり、それが他家で恩賞として使われるほど価値があり、貰ったほうも嬉しい。
この事からも谷衛友の武辺の程、当時の評判が想像できるであろう。

関ヶ原戦後、細川家の豊前国移封では山家領内を通過した。
その際、城下の渓谷にわざわざ資材を持ち込んで橋を架けている。
この橋はその後(肥後に国替えとなった細川家にちなんで)「肥後橋」と呼ばれ、橋から城に向かう道も「肥後坂」と呼ばれている。
その後の江戸期においても、数度の同橋の流失・消失の際には細川家から資金の援助があった。

本人の肖像とされるものが伝わるが、大変質素な服装を身につけている。

試刀術
父大膳衛好は戦場働きの必然性のためか、刀剣の性能を見極める「試刀」の技術を独自に編み出して衛友に伝授した。
一般に「試刀術」(試剣術)と呼ばれるこの刀剣性能測定法は、美意識・美的価値による芸術としての刀剣鑑定・ランク付けではなく、鎧や兜といった武具など、そして実際に人間(通常、死罪人か死体そのもの)を斬ることにより、実際の道具としての刀剣性能を品評するものである。
またはそれに必要な技術そのものであり、経験と知識、そしてなにより錬度の高い技術を要した。
衛好はこの技術をさらに研鑽した上で門人に伝授した。
その流派に属するのが初代の公儀御様御用(こうぎおためしごよう)・首切り山田浅右衛門である。

[English Translation]