豊臣秀吉 (TOYOTOMI Hideyoshi)

豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし/とよとみ ひでよし)/羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代 (日本)(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
「豊臣秀吉」の読み方についての議論に関しては「豊臣氏」を参照。

尾張国愛知郡 (愛知県)中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、本能寺の変本能寺の変後の諸将の動向により京都へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。
その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。
豊臣氏姓を賜り、日本全国の戦国大名を従え天下統一を成し遂げた。
太閤検地や刀狩などの政策を採るが、文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。

墨俣城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

今川家臣

はじめ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り一部の『太閤記』などには、松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓した、とするものもある。
なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字とした、とする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区 (浜松市)頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(松下加兵衛)に仕えた。
藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。
『太閤記』などでは、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、とされているものが多い。
藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする俗説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。

その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国内に1600石を与えられ、天正18年(1590年)には1万6000石と頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。

信長の家臣時代

織田信長の正室生駒吉乃の口添えで、天文23年(1554年)ころから信長に小者として仕える。
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果をあげた草履取りのエピソードは有名だが、この辺りは史実の裏づけがあるわけではなく、俗説・伝説の域を出ない。

そうして信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。
この頃、その風貌によって信長から「サル」「禿げネズミ」と呼ばれていたらしい(注:容姿の項目を参照)。
永禄4年(1561年)田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房、2007年、ISBN 978-4623049547)p.11、浅野長勝の養女高台院と結婚する。

美濃国の斎藤龍興との戦いのなかで、墨俣一夜城建設に功績を上げた話が有名だが、『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく江戸時代の創作であるとする説が強い。
このころ斉藤氏の影響下の美濃より竹中重治(竹中半兵衛)、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康らを配下に組み入れている。

永禄11年(1568年)、信長の上洛に際して明智光秀らとともに京都の政務を任される。
当時の文書に秀吉の名乗りが見られる。

元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。
順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。
浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、池田勝正や明智光秀と共に秀吉は殿 (軍事用語)を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)。
その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江国三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城 (近江国)の城主となる。
この頃、丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下姓を羽柴姓に改めている(羽柴秀吉)。

近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。

天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲たがいをし、無断で帰還してしまった。
その後、勝家らは上杉謙信に敗れている(手取川の戦い)。
信長は秀吉の行動に激怒したが許され、秀吉は織田信忠の指揮下で松永久秀を滅ぼし功績を挙げる。

その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従える。
さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。
一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼす。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降した(三木合戦)。
同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏においた。

天正9年(1581年)には山名氏の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。
その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いた。
同年、岩屋城 (淡路国)を攻略して淡路国を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城 (備中国)を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。
このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。

このように中国攻めでは、三木合戦・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮している。

信長の死から清洲会議まで

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都・本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。
このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(=中国大返し)。

秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日、山崎において秀吉と戦ったが、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。
秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。

6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。
織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(織田秀信)を推した。
勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。

信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張、織田信孝が美濃、織田信包が北伊勢国と伊賀国、光秀の寄騎であった細川幽斎は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の志賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。
勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。
秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国、河内国を増領し、28万石の加増となった。
これにより、領地においても秀吉は勝家を勝るようになったのである。

柴田勝家との対立

秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。
原因は秀吉が山崎に宝寺城を築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施し、私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったためであるが、天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。
これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行なうことで切り抜けている。

12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、12月9日に池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。
そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。
もともと勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏した。
12月16日には美濃に侵攻し、稲葉良通らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斉藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。
こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。
これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。
2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。
また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。
しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興、山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。
とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにも関わらず、優勢であった。

2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。
これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。
この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。
さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めるなど、はじめは勝家方が優勢であった。

4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。
この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。
しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(賤ヶ岳の戦い)。

4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。
秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。
5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。
こうして、反秀吉陣営を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立したのである。

徳川家康との対立

(小牧・長久手の戦いも参照のこと)

天正12年(1584年)、信長の後継者を自任する信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。
そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。
このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊国雑賀党らも反秀吉として決起した。

これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。
さらに去就を注目されていた美濃の池田恒興(勝入斎)をも、尾張と三河を恩賞にして味方につけた。
そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。
また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。
羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。
さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。
秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。
秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。
このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。

そのような中、前の敗戦で面目躍如に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。
しかし、奇襲部隊であるにも関わらず、行軍は鈍足だったために家康の張った情報網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。

こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにも関わらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。
秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。
また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。
また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。
家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。
戦後、秀吉は権大納言に任官されている。

その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。
家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

豊臣政権と紀伊・四国・越中攻略

天正11年(1583年)、石山本願寺の跡地に大坂城を築く。
豊後国の大名・大友義鎮は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。
しかし城の一部に防御上の問題が有り、秀吉自身もそこを気にしていたと言われている(のちの大坂の役で真田信繁(幸村)は、防御の弱さを指摘されていた箇所に真田丸と呼ばれる砦を築き、大坂城の防御を大幅に強し、徳川勢を大いに苦しめた)。

天正12年(1584年)には朝廷より征夷大将軍任官を勧められたが断ったとする説がある堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642008136。

天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。
そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る。
最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。

また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。
これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。
元親は土佐国のみを安堵されることで許された(四国征伐)。

7月11日には近衛前久の猶子として関白宣下を受け、天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜ってこれを羽柴から豊臣への改姓と誤解されることが非常に多いが、羽柴は名字、豊臣は本姓であり、両者は性質が異なる別物である。
秀吉や秀長たちの名字はこれ以降も羽柴のまま変わっていない。
詳細は「豊臣氏」を参照。
、12月25日、太政大臣に就任し『公卿補任』には12月19日_(旧暦)と記載されているが、『兼見卿記』に後陽成天皇即位式当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている(橋本政宣『近世公家社会の研究』)、政権を確立した(豊臣政権)。
秀吉は「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られた、という説もある。

越中国の佐々成政に対しても8月から征伐を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。
織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。
こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。

九州征伐

そのころ九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。
秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られ、九州に攻め入ることになる。

天正14年(1586年)には豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、長宗我部信親親子・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。

だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・豊臣秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久・島津義弘らを降伏させる(九州征伐)。
こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。

九州征伐完了後に博多においてバテレン追放令を発布したが、事実上キリシタンは黙認された。
天正16年(1588年)刀狩令を出し大規模に推進した。

小田原征伐

天正17年(1589年)に、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が、真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東地方に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

太閤記によると、秀吉は、奥羽の諸氏に、小田原に参陣するように命令したが、伊達政宗は遅参した。
秀吉は、奥州の田舎、奥州の太守(政宗)を蠢く虫と評し、政宗は恐れ入ったという。
秀吉は、大器、天威、所世の人の及ぶべくもないと評され、格の違いを見せ付けた。
政宗が首尾よく、帰国すると、諸将は虎を放つのは危険と進言したが、歯向かえば、誅伐すればよい、と語り、諸将は頓首したという。

小田原城は、上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城だが、季節的な理由で撤兵する可能性のない包囲軍の前では無力であった。
三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政・北条氏直父子は降伏。
氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原征伐)。

天下統一

最後の大敵・後北条氏を下し、ついに天下を統一する。
秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。
しかし、臣従させた伊達氏のように、軍事的な殲滅の対象とならなかった諸大名が残っていたことにより、諸大名は軍事力を温存することができていた。
この有力諸大名の処遇が秀吉の政権の課題となる。

天正19年(1591年)には関白及び家督を甥・豊臣秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
豊臣氏を継いだのは秀次と思われ、秀次は家督を相続したが廃嫡されたと考えるのが妥当と思われる。
家督相続順は秀次に次いで秀頼が継いだと思われる。
また厳密には秀頼は関白宣下も氏長者にもなっていないので、生涯を羽柴姓で通したと思われる。
本姓は豊臣姓であるが、おそらく、関白宣下を受けなければ公式に豊臣姓を名乗ることを禁じられたのではないか?
また、秀吉に仕えていた茶人千利休に自害を命じている。
利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、利休は切腹して果て、首が一条戻橋で晒された。
この事件が起きた理由については諸説がある。

この年、東北の南部氏一族、九戸政実が後継者争いのもつれから反乱を起こす。
秀吉は南部信直の救援依頼に対し、豊臣秀次を総大将とした蒲生氏郷・浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍を派遣。
東北諸大名もこれに加わり、6万の大軍となった。
九戸政実・九戸実親兄弟は抗戦するが、多勢に無勢の為やがて降伏。
その後九戸氏は豊臣秀次に一族もろとも斬首されて滅亡。
乱は終結した。

文禄・慶長の役から晩年

文禄元年(1592年)、16万の軍勢を李氏朝鮮に出兵した(文禄・慶長の役)。
初期は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵の抵抗や明の援軍の到着によって戦況は膠着状態となり。
文禄2年(1593年)から休戦期に入り明との間に講和交渉が開始された。

この頃、側室の淀殿との間に豊臣秀頼が産まれた。
2年後の文禄4年(1595年)、「殺生関白」(摂政関白のもじり)と呼ばれたほどの乱行を理由に、関白・豊臣秀次に切腹を命じた。
秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となった。
秀次の妻子などもこの時処刑された。
秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もされている。

文禄5年(1596年)、文禄・慶長の役の講和交渉は決裂し、慶長2年(1597年)、14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した(文禄・慶長の役)。
同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。

慶長3年(1598年)8月18日、五大老筆頭の徳川家康や豊臣秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した。
死因については胃がんなど諸説がある。
享年61。
家督は秀頼が継いだ。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

秀吉の死によって文禄・慶長の役は終了した。
7年に及ぶこの戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きな被害をもたらした災厄であり、明には莫大な戦費の負担と兵員を損耗によって滅亡の一因となった。
日本でも、動員された西国大名が加封を受けられずに疲弊した。
秀吉の墓は壮麗に築かれた(墓所・霊廟・神社)ものの、没後の混乱のため、葬儀は遂に行なわれなかった。

政策

秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。
太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。
しかし、刀狩や検地・兵農分離なども元々は織田政権化で進められていたものであり、このことから秀吉は少なくとも政策・戦略面では信長を模倣したからこそ天下を取れたともいえる。

秀吉は当初はキリシタンに好意的であったが、宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食を理由に、天正15年(1587年)、伴天連(バテレン)追放令を出した。
幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた事が強調されている(関連サン=フェリペ号事件)。
しかし、スペインやポルトガルが日本征服を意図し、計画していたことについては正確な証拠がない。
イエズス会員の書簡においては、明征服や九州征服に関する単独の提案があったのは確実であるが事実、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言しており、また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。
当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している。
、そういった提案は、スペインやポルトガルの高官によって無視されていた。

秀吉の対外認識について示す文書の1つに、九州遠征中の天正15年6月1日付で本願寺顕如に充てた朱印状の中で、「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」(「本願寺文書」)とある。
「我朝之覚」とは神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約あるいは天平勝宝2年(752年)に孝謙天皇が新羅の使者に伝えた新羅国王の入朝命令と考えられ、この例に倣って高麗(李氏朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考えて、直後に李氏朝鮮に対してその旨の使者を送っている清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣) ISBN 9784639011954)。
これは朝鮮が惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示すもので、実際に5月9日の段階で秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性に対して「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記して、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示す書状を送っている。
こうした考え方が、文禄・慶長の役における対朝鮮政策にも深く影響していたと考えられている
もっとも、かつては神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたこと、鎌倉時代の『曾我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記されており、島国に住む日本人(外国と接する機会のある僧侶や商人などの例外を除く)における長年にわたる対外意識の希薄さが背景にあったと考えられている。

人事においては、石田三成や大谷吉継らは文治・吏僚派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。
秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成したのだと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにもつながった。

織田信長が重臣の林秀貞や佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治や加藤光泰、尾藤知宣らを追放し、さらに軍師であった黒田孝高も冷遇して中枢から排除している。
これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放は譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退につながったと言っても過言ではない。

天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政局争いの元となっている。

蒲生秀行 (侍従)、小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)につかせる一因を成した。

出身・家系

秀吉の父・弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある(一説には百姓では思いつかないような発想などから秀吉は武家へ仕官以前は針の行商人で商人出身であったという説がある)。
太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。
ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。
つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。
当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。
それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
秀吉の真の出自と初期の人生についてはいまだ謎に包まれている側面が大きいとも言える。

生涯において子宝に恵まれにくかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。
男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。
長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民は、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回しことが、始まりと伝えられている。
しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は、2人の養子を秀勝と名付けている)。
長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。
女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。
「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したと近江坂田郡誌に記載されている。
秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。
しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。
多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にズレがある。
「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。

関白就任時に萩中納言のご落胤と主張した。
(もちろん公家に萩中納言という人物は存在しない)

容姿

秀吉が猿と呼ばれたことは有名であるが、絵に残っている秀吉の容姿から「猿」を連想し、「猿」という呼び名は見た目から来たという説が流布するようになったと言われている。
秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書などの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するものという説もある。
また、信長は「猿」と呼んでいないとの主張(一説に織田家中で陰口として猿と呼ばれていて、秀吉は猿と呼ばれるのを非常に嫌い、猿と呼んだものには容赦をしなかったという)もあり、藤田達生は山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したと推測している。
「禿げ鼠」の呼び名も、信長の高台院への書状の中で秀吉を叱責する際に一度触れられたのみで、常用されていたわけではないと言われている。
仮にそのような容姿であっても秀吉が残した功績を貶めるものではない。

秀吉は指が一本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録「国祖遺言」に記されている。
後者によれば右手の親指が一本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。
当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。
しかし、天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。
そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。
現在では、前田利家の証言記録などから六指説を真説とする考えが有力であるものの、一次資料が存在しないこともあり、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い。
近年発表された小説でさえこの説を奇説扱いするなど、まだ一般に認知されるには至っていない。
なお、戦国時代を題材にした漫画では、センゴクとシグルイがこの説を取り入れており、これらの作品に登場する秀吉は六指である。

身長は不明。
150cm下から160cm余まで諸説ある。

秀吉は髭が薄かったため、付け髭をしていたという有名な説がある(ただ当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、薄いものが付け髭をするのは普通のことであった)。

死因

様々な説が唱えられており、有名な説の一つに梅毒によって死亡したというものがある。

晩年は老耄だったようで、人前で小便を漏らすこともあったとされる(大河ドラマ・独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)および功名が辻 (NHK大河ドラマ)では晩年の秀吉が失禁するシーンが描かれた。)。

人柄など

ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀二年に湖北一向一揆を殲滅したり(松下文書や信長公記より)、天正五年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供二百人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(十二月五日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようである。

母親の大政所への忠孝で知られる。
小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。
朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わなかった。
明治時代の国定教科書でも、特に秀吉が親孝行であったと記述されているほどである。

10歳の女子を側室として迎えたりするなど、かなりの好色家であったと言われているただし前近代では日本のみならず世界中で女性・子供への人権保障水準が現在とは比較にならないほど低く、児童性愛も一定程度許容されていた事情もある。
イスラームの預言者ムハンマドも9歳の少女アーイシャと性行為を行っている。
ルイス・フロイスは、秀吉のことを「極度に淫蕩で、獣欲に耽溺していた」と批判的に記述した。
秀次に関白職を譲る時に与えた訓戒状に「女狂いなど自分の真似はするな」とあることから、秀吉も好色を自覚していたようである。
文禄・慶長の役で、大名に大事な役目として、優れた精力剤とされていた虎の肉の献上を命じたこともある。

戦国大名は主君と臣下の男色(いわゆる「衆道」)を武士の嗜みとしていた(有名なのは織田信長と森成利などである)。
しかし秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。
男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び入れ、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に妹か姉はいるか?」と聞いただけだったとされる。

後世の評価

明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった(秀吉を肯定することで家康を貶め、しいては江戸幕府の評価を下げることで明治政府の正当性を高めるという側面もあったとも指摘される)。
その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。
このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。
江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。

このように秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に、誕生の地である名古屋市中村区(記念館がある。
また名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする)、政権を執った本拠地の大阪市(江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い)などでは人気が高い。

意外なことに書道に優れ、北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した
ただしこれは秀吉に高い教養がある事を示すものではなく、彼の書簡には誤字や当て字、仮名が多用されていたと言われる。
『太閤夜話』などにも、「醍醐」の「醍」を祐筆が度忘れした際、「大」と書くよう指示するエピソードがある。

本能寺の変の黒幕説

本能寺の変の黒幕は秀吉ではないか、とされる説が囁かれる事が多い。
その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。
秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。
ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。
明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳だが、ひとつだけ大きな問題があった。
それは、軍勢を集める理由である。
ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。
光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。

また、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、という疑惑が持たれている。

ただし、以上のような説は正規の学説にはなっておらず、むしろ小説家がフィクションとして採用している例がほとんどである。
上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。

『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。

明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。

秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。

いわゆる「中国大返し」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。
『事前に用意していなければ出来ない』とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない(当時の武士から見ても速すぎるのであれば後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康らがそれを主張しないのは不自然である)。

「本能寺の変」を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。
一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。

墓所・霊廟・神社

死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社 (京都市)(京都)に祀られたが、豊臣家滅亡後、徳川家康により全ての建造物は破却され、大明神の号も剥奪された。
三代将軍徳川家光の時代徳川幕府により廃された。
明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。
金剛峯寺奥の院に豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中には秀吉のものはない。
その理由は不明である()。

戒名 - 国泰裕松院殿霊山俊龍大居士

秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には豐國神社 (大阪市)(大阪市)、豊国神社 (長浜市)(長浜市)、豊国神社 (名古屋市)(名古屋市)である。
大阪市と長浜市はかつて秀吉が統治した町、名古屋市は秀吉の生地である。

家臣

譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を(新たに)得た。

織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、竹中重治、樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成、黒田孝高、増田長盛などがおり、福島正則、加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。

賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らが賤ヶ岳の七本槍として数えられる。
ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。

信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。

晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行を設けるが、死後に譜代の家臣は関ヶ原の戦いで武断派と文治派に分かれ戦った。

[English Translation]