足利直冬 (ASHIKAGA Tadafuyu)

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代 (日本)の武将。
室町幕府征夷大将軍足利尊氏の妾腹の子。

伝記

実父である足利尊氏に認知されず、幼少時は相模国鎌倉の東勝寺 (鎌倉市)(神奈川県鎌倉市)において喝食となる。
興国6年/貞和元年(1345年)頃に還俗して上洛、京都で玄恵法印に紹介され叔父の足利直義の養子となった。
時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る。
その後も数年は父の尊氏との対面は許されずに認知されていなかったと言われる。
正平 (日本)3年/貞和4年(1348年)に初陣を行い、紀伊国など各地で南朝 (日本)勢力と戦い戦功をあげて帰還する。

室町幕府では将軍尊氏とともに二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立が生じ、やがて内紛に発展して観応の擾乱に至る。
古典『太平記』によれば、直義の猶子である直冬の凱旋に対して、足利家家中から冷ややかな視線が存在したと記されている。
正平4年/貞和5年(1349年)に直義の提案で直冬は長門探題に任命され、4月に京都を出発する。
8月に師直のクーデターで直義が失脚し、直冬は上洛しようとするが、播磨国の赤松則村(円心)に阻止される。
直冬は中国地方において軍勢を催促するなどの態度を取ったため、将軍尊氏は直冬討伐令を下す。
直冬は9月に鞆津(広島県福山市)で師直の兵に襲撃され、九州へ逃れる。

同月、肥後国河尻津(熊本県熊本市)から九州に上陸し、足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵するなどして足場を築く。
直冬の九州落ちを知った幕府は直冬に出家と上洛を命じるが、直冬がこれに従わないと見るや再び討伐令を下す。
九州には、征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や、足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏(道猷)、大宰府の少弐頼尚らの勢力が鼎立していたところ、直冬は、将軍尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府と協調路線を取り大宰府攻略を目指す。

少弐頼尚は当初、一色氏と協調して直冬と戦っていたが、直冬の勢力が拡大すると一色氏への対抗心から正平5年/観応元年(1350年)9月に直冬を自陣営に迎える(一説によれば婿にしたと言われる)。
勢力を拡大した直冬らは一色氏を博多から駆逐する。
直冬と少弐氏との同調を受けて、幕府では尊氏自ら直冬のいる九州に出兵しようとするが、その最中に直義が京を脱出し、支持勢力を集めて南朝に帰順して挙兵したために中止される。
正平6年/観応2年(1351年)2月、尊氏は直義勢に敗れて和議を結ぶが、高師直、高師泰兄弟が直義方に殺害される。
直義が政界に復帰し、直冬は3月に九州探題に任命される。

しかし、尊氏と直義の間で再び不和が生じ、同年に尊氏が南朝と一時的に講和する正平一統が成立し、尊氏は南朝の後村上天皇から直義討伐令を得る。
直冬に対しても再び討伐令が下り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返す。
翌正平7年/文和元年(1352年)、鎌倉で直義は尊氏に降伏し、2月に急死する。
正平一統は破綻するが、九州において孤立した直冬は中国地方へ逃れ、長門国豊田城に拠る。
直冬は時期不明だが南朝に帰服し、旧直義派や、反尊氏勢力で南朝にも接近していた桃井直常、山名時氏、大内弘世らに後援され、正平9年/文和3年(1354年)にこれら反尊氏派の軍勢を率いて上洛し、翌正平10年/文和4年(1355年)に南朝と協力して京都から尊氏を追い、一時的に奪還する。
しかし、尊氏方の反撃に遭ってすぐに撤退している。

正平13年/延文3年(1358年)年には尊氏が死去するが、南朝勢力も幕府の度重なる攻勢の前に衰微し、大内、山名らも幕府に降り、直冬党は瓦解する。
正平21年/貞治6年(1366年)の書状を最後に直冬の消息は不明となる。
一説には、石見国に隠棲したとも言う。
没年は足利系図では至徳4年7月2日(1387年8月16日)、系図纂要では応永7年3月11日(1400年4月5日)としている。

また、嘉吉元年(1441年)に6代将軍の足利義教を殺害し、播磨で挙兵した赤松満祐は、直冬の孫であるという足利義尊を擁立して戦っており、満祐の敗死に伴い義尊も討ち取られている。

[English Translation]