近衛政家 (KONOE Masaie)

近衛 政家(このえ まさいえ、文安元年(1444年) - 永正2年6月19日 (旧暦)(1505年7月20日))は、室町時代中期から戦国時代 (日本)前期にかけての公家。
関白、太政大臣。
藤原北家摂家近衛家13代当主。
一字名は霞。
号は後法興院。

生涯

文安元年(1444年)関白・太政大臣を務めた近衛房嗣の次男として生まれる(生年については1445年、1446年説もあり)。
兄は近衛教基(右大臣)。
弟に道興(僧正准三后)、増運(大僧正准三后)、政深(権僧正法印)、政弁(大僧正)らがいる。

寛正3年(1462年)兄の教基が死去したのに伴い、近衛家を嗣ぐ。
翌年従三位に叙され、近衛府に任ぜられる。
その後も連年昇進を続け、応仁元年(1467年)には大納言となり、文明 (日本)4年(1472年)には正二位内大臣となる。
応仁の乱が終熄した文明11年(1479年)に関白左大臣となる。
同15年関白を辞した後、長享2年(1488年)太政大臣に任命される(翌々年辞去)。
明応6年(1497年)には准三宮となった。
永正2年(1505年)、死去。
享年62。
子に近衛尚通がいる。

文化人としての側面

政家は和歌に優れており、その歌は『新撰菟玖波集』に入集している。
なお明応9年8月13日 (旧暦)(1500年9月6日)に近江国守護六角高頼の招待で琵琶湖へ出向していた政家が、近江八景の和歌8首を即興で詠んだことが、近江八景の由来として広く知られているが、近年では八景の始まりは政家によるものではない(政家はこの時期、近江へ下向していない)とする説も有力である。

近衛家は藤原氏嫡流として、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめとして、先祖代々の日記や朝廷儀式の記録など、重要な文書を相伝してきたが、政家は応仁・文明の乱に際し、これら大量の古文書を戦火の災いから避けるため、京都の北郊の岩倉に運び出しておいた。
このため乱の最中、近衛家の邸宅は焼失したものの、古文書類は難を逃れ後世に伝えられることとなった(詳しくは「陽明文庫」を参照)。

また、政家自身が残した日記『後法興院記』も、室町時代中期の朝廷を知る上での貴重な史料として知られる。

官職位階履歴

寛正4年(1463年) 従三位近衛府

寛正5年(1464年) 中納言兼衛門府

寛正6年(1465年) 正三位

文正元年(1466年) 従二位左近衛中将

応仁元年(1467年) 大納言

文明 (日本)4年(1472年) 正二位

文明7年(1475年) 内大臣

文明9年(1477年) 左近衛大将

文明10年(1478年) 辞去

文明11年(1479年) 関白・左大臣

文明13年(1481年) 左大臣を辞す

文明15年(1483年) 関白を辞す

長享2年(1488年) 太政大臣

延徳2年(1490年) 辞去

明応6年(1497年) 准三宮

[English Translation]