那須与一 (NASU no Yoichi)

那須与一(なすの よいち、嘉応元年(1169年)? - 没年不詳)は、平安時代末期の武将。
系図上は那須氏二代当主と伝えられる。
父は那須資隆(太郎)。
妻は新田義重の娘。
一般的には本名は「那須宗隆」(平家物語では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。
(この項目での呼称は「与一」で統一する)。

「与一」とは

与一は十あまる一、つまり十一男をしめす通称である。
なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠、浅利義遠がいる。
彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。

略歴

吾妻鏡など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物語である平家物語や源平盛衰記に伝えるところが大きい(そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。
平家物語の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年、1168年)頃に誕生した。
誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町 (栃木県))と推測されることが多い。

治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり源義経に従軍。
元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇子の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波国・信濃国など五カ国に荘園を賜った(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘)。
また、十郎為隆を除く九人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆ものちに罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。
与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。
しかし、某年、山城国伏見において死去。
法名は即成院殿禅海宗悟大居士(又は即成院殿月山洞明大居士)。
なお、「寛政重修諸家譜」では文治5年(1189年)8月8日死去、「続群書類従」では建久元年(1190年)10月死去とある。
家督は兄の那須資之が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の実子(異説もある)である那須頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際にホスト役を務めた(『吾妻鏡』による)那須光資である。

異説・伝承

幼いころから弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父を驚嘆させたという地元の伝承がある。
また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た源義経に出会い、父・資隆が兄の千本為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。
その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。

平家物語に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。

子孫についてはいないとされているが、歴史学者の那須義定などが主張する異説(越後那須氏)もあり、梶原氏といさかいをおこしたため家督を捨てて出奔し、越後国の五十嵐家に身を寄せ、結婚して一男一女をもうけ(息子は越後那須氏の祖となる)たという。
その他、常陸国、出羽国、阿波国にも与一の末裔と称する一族が存在したという伝承、寺伝がある。

また、没年についても、1189年(又は1190年)に没したとするのは頼朝の粛清を免れるための偽装、出家した理由はハンセン病にかかり顔が変わってしまったため、とする伝承もある。
また、那須義定によると頼朝の死後に赦免されて那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けた後、貞永元年(1232年)に中風のため摂津国で没したという。

墓所

墓所は、京都府京都市の即成院であるが、兄の那須資之が功照院という寺を建立し、分骨を埋葬したといい、
永正11年(1514年)に、一度は廃寺になったものの、天正18年(1590年)、那須資景が那須氏の菩提寺玄性寺(栃木県大田原市)として再建し、那須氏では、こちらを本墓としている。

また、兵庫県神戸市須磨区には、那須興一宗高公御墓所という与市の墓とされるものがある。
この墓にお参りすると、年老いても下の世話にならないとする言い伝えがある。
また近くには与市が信仰したとされる北向八幡神社と、地元の人々が与市を祀った那須神社がある。

米沢市中央5丁目の西蓮寺の北西隣の虚空蔵菩薩堂の前には、那須与市の名を刻む三重の、高さ高さ約4.2メートルの石塔がある。
これは那須与市の供養塔とされ、塔には「那須与市宗隆公」「千坂対馬守景親公」と刻まれており、裏には「享保四年孟夏十三日建立」と建立日が刻まれている。
千坂景親は上杉謙信の重臣だが、千坂氏は那須氏とは婚族関係にあり、与一の守本尊(虚空蔵菩薩像)が伝わっていたとされる。

また扇の的を射た功名で全国に得た荘園のうち1つの備中荏原庄(現在の岡山県井原市西江原)の山中にも与市の五輪供養塔が存在する。
また備中荏原の菩提寺として開基した永祥寺の境内には、屋島での合戦時に破り捨てた片袖を祭った袖神神社や、那須一族の居城とされる小菅城址や創建した神社も存在する。

後世への影響

那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。

現代の日本において、各種の二次創作物やフィクションに登場する「那須与一」は、この与一をモデルにしている。

那須氏に関係する、または与一と関係があったとする伝承が存在する神社仏閣などでは、与一にちなんだ祭りが行われている。

[English Translation]