鈴木清順 (SUZUKI Seijun)

鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日 -)は映画監督、俳優。
本名は鈴木 清太郎。
元NHKアナウンサーの鈴木健二の兄。
日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹 (俳優)、宍戸錠らを主演に迎えた。
『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。
『ツィゴイネルワイゼン (映画)』、『陽炎座』、『夢二』などでは幽遠な映像美を見せた。
その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれる。

略歴
1923年、日本橋の呉服屋の長男として誕生。
生まれてまもなく関東大震災に被災。
以後、日本橋から下町に移り住む。

1943年、弘前高等学校 (旧制)(現弘前大学)に入学してまもなく学徒出陣。
陸軍見習士官で終戦。

1948年 復員後、旧制弘前高等学校卒業。
東京大学受験に失敗するも、松竹の助監督試験に合格。
同期入社は赤八会(赤っ恥を八人でかくの意)の中平康、斎藤武市、井上和男、生駒千里、松山善三、今井雄五郎、有本正。

1954年、日活に助監督契約で移籍。
『黒い潮』という作品で、清順美学誕生のキーパーソンである美術監督木村威夫に出会う。

1956年、『港の乾杯 勝利をわが手に』で、監督デビュー(サード助監督は藤田敏八)。

1958年、『暗黒街の美女』で清順に改名。

1966年、木村威夫ら8人と具流八郎という脚本家グループを作る。

1968年、『殺しの烙印』に不満を持った堀久作社長により日活を解雇される。
即、不当解雇として日活を告訴(1971年和解成立)。

鈴木清順問題共闘会議を参照。

1981年、『ツィゴイネルワイゼン (映画)』で、ベルリン国際映画祭審査員特別賞受賞。

2003年、織部賞グランプリを受賞。

2005年、『オペレッタ狸御殿』がカンヌ国際映画祭特別招待作品に。

その他
松竹入社後、ダンディで名高い松竹トップクラス監督の木下惠介が、「あんな汚らしい男をうちの助監督につけるな」と発言。
現に一度も木下惠介の助監督はやっていない。

松竹助監督時代はどちらかと言うと、日陰の存在の監督(岩間鶴夫)や「大船三天皇」と呼ばれた奇人の助監督などと共に仕事をしていた。
よくいっしょに仕事をしていたのは篠田正浩。

「日活は松竹の3倍の給料が出るよ」と西河克己監督に誘われて日活移籍を決意。

『東京流れ者』の虚無的なラストシーンが日活上役たちから大批判を受け、急遽、ラストシーンを撮り直す。
修正前のフィルムは現存せず。
そしてとうとう翌年、『殺しの烙印』で社長の逆鱗に触れ、日活を解雇されてしまう。

日活解雇後、妻や彼を慕う人々に生活や仕事を支えられ、梶原一騎プロデュースの『悲愁物語』で映画界に復活。
そして荒戸源次郎プロデュースの『ツィゴイネルワイゼン (映画)』で日本のみならず海外でも高い評価を受ける。
キネマ旬報ベストテン1位(黒澤明監督『影武者 (映画)』は2位)など、各賞受賞。

1990年、朝日新聞社系のCS局である衛星チャンネル(現・朝日ニュースター)の情報生番組『Whats New』にゲスト出演。
当時一般的にいわれていた、清順美学は『野獣の青春』で突然開花したという定説を自ら覆し、デビュー作の頃から意識していたと発言した。
なお、この番組では、鈴木自身のセレクトによる名場面集が「桜」「奈落」「幽霊」などのテーマに分けて紹介されている。

1991年、読売テレビの深夜映画番組(『CINEMAだいすき!』)で鈴木清順特集が組まれ、日活時代から復活後までの作品と、それらの作品などを珍しく積極的に語る監督の貴重なインタビューが放送された。

1984年のテレビアニメ『ルパン三世 PartIII』第13話「悪のり変装曲」では脚本を執筆しており、一風違ったミステリアスな作品に仕上がっている。

大森一樹監督は『暗くなるまで待てない!』(1975年)『ヒポクラテスたち』 (1980年)と続けて清順を「特別出演」させた。
それ以降、彼をリスペクトする若手監督たちの間で「鈴木清順のカメオ出演」が流行のようになり、大量の映画やテレビドラマに出演することとなった。

[English Translation]