長宗我部盛親 (CHOSOKABE Morichika)

長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将。

家督相続

天正3年(1575年)、四国の覇者として名高かった長宗我部元親の四男に生まれる。
天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うことになる。
父の強硬な後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。

このときの家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかったが、元親はそれらを全て処断している。
さらに元親が幼少である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系をすでに継いでいたことと、なによりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには、上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。
元服のときは、豊臣氏の重臣・増田長盛を烏帽子親として「盛」の一字を授かって盛親と名乗った。

長宗我部家の家督に決定した後、父・元親とともに天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。

慶長2年(1597年)、3月24日には父元親と共に制定した長宗我部元親百箇条を発布している。

慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。
当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えた。
近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍に与した。
盛親は、西軍の主力部隊となって東軍に与する各城を落としながら関ヶ原に向かった。
関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には加わることが出来ないまま西軍は壊滅した。

改易

西軍壊滅後、盛親は軍を率いて領国の土佐に逃げ帰った。
土佐物語によると、盛親は懇意にあった徳川家康の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪した。
家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを買って、領土没収で改易となってしまった。

その後、盛親は京都へ送られ、身一つの謹慎生活を送る事になった。
京都では大岩祐夢と名前を変え、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれるが、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある。
また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。

大坂の役八尾・若江合戦

慶長19年(1614年)秋、大阪方と徳川方との間が風雲急を告げる中、豊臣秀頼からの招きで大坂城に入城した。

大坂の役では真田信繁などの活躍で盛親に出番はなかったが(真田丸の守備は真田信繁と盛親が共同で行っていたという説もある)、大坂の役では豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川家の藤堂高虎と戦った。

慶長20年(1615年)5月6日の未明、長宗我部隊の先鋒が藤堂高虎隊を発見した。
この時、長宗我部の先鋒は軽装備であったため、盛親は先鋒をすぐに本隊に合流させようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。
鉄砲を撃ち込まれた先鋒は打ち破られてしまう。
勢いに乗じて藤堂隊は長宗我部隊を叩き潰そうと軍を動かしたが、盛親は川の堤防に陣を敷き、藤堂隊が近づいたところで一気に槍を構えた兵を突撃させた。
その突撃の勢いは凄まじく、藤堂隊の先陣は一気に壊滅した。
盛親が攻撃の手を緩めなかったため、藤堂隊はほぼ壊滅状態になり、高虎の甥の藤堂高刑などが戦死し、高虎も逃げ回らざるを得ない有様だった。
武将を一度に失った藤堂隊は、指揮命令系統も潰れてもはや統制も利かず敗走寸前に陥ったが、井伊直孝の隊が駆けつけた。
この援軍の登場により、木村重成が戦死、他の諸部隊も壊滅したため、撤退を余儀なくされる。

最期

勝利を諦めた盛親は次の日の大坂城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城・京橋口の守りについていた。
敗北が決定的になると「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し再起を図って逃亡した。

だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられる。
その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。
そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原で梟首された。
享年41。

これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。

墓所:京都市五条寺町の蓮光寺。

領安院殿源翁宗本大居士と諡名された(別の諡名として蓮国一栄大禅定門)。

その一方、若狭国の本願寺系の末寺で僧侶になり、一婦人とともに余生を過ごしたとの伝説も残っている。

人物・逸話

身長は6尺(180cm)あったとされ、父と兄(長宗我部信親)同様に当時としては大男であったと言われる。
また墓所のある蓮光寺には、肖像画(原則非公開)が残されており、父によく似た剛毅な風貌を伝えている。

大阪の陣で盛親は恩賞として土佐一国を所望したという。
当時としては豊臣方に勝利のチャンスがあると考えられていたので、盛親が豊臣についたのは旧領奪回の打算があったのは間違いない。

大坂夏の陣で敗れ、徳川方に捕らえられ白州に引き出された際、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝、大坂方敗戦の因は八尾で敗れた長宗我部盛親」と答えたと言われる。

同じく白州において、自刃もせずに捕らわれたことを徳川方の将兵が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い、「出家するから」とまで言って命乞いをしている。
しかし盛親の胸中を知る徳川家康はこれを許さず、死罪に決したという。

二条城の門前に晒された際に、折敷に盛った強飯と赤鰯を足軽からあてがわれ、「戦に負けて捕らわれることは恥としないが、かくも卑陋な物を食わせるとは無礼な奴。早く首を刎ねよ」と怒った。
これを聞いた井伊直孝は盛親を座敷に上げて、大名料理で供応した。
盛親はこの心遣いに感激したという。

盛親の最期を記した記録には「死に及んで、いささかも怯じたる気配なし」とあり、その最期は立派だったようである。

備考

由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は、盛親の側室の次男長宗我部盛澄を名乗った。
丸橋は母親の生家の苗字。

盛親を扱った小説に司馬遼太郎の『戦雲の夢』と、二宮隆雄の『長宗我部盛親』がある。
ただし二宮隆雄の本は盛親の最後が歴史と違っている。

[English Translation]