長皇子 (Naga no Miko)

長皇子(ながのみこ、生年不詳 - 和銅8年6月4日 (旧暦)(715年7月9日))は飛鳥時代後期から奈良時代初期にかけて活躍した皇族。
父は第40代天武天皇、母は天智天皇皇女の大江皇女。
同母兄弟には弓削皇子、子女は栗栖王、文室浄三、長田王、文室大市らがいる。

前半生の事績は不明で、記録上の初登場は693年(持統天皇7年)に浄広弐に任じられた時。
その後は順調に出世し、慶雲元年(704年)と和銅7年(714年)にはそれぞれ封戸200戸を加増されている。
薨去時の年齢は不明だが、皇子である智努王らの生年から40歳代中盤から50歳代前半と推定される。
また、彼をキトラ古墳の被葬者である説も存在している。

系譜

続日本紀によれば、天武天皇の第4皇子にあたる。

長皇子の子のうち文室浄三、文室大市は舎人親王薨去後、天平勝宝4年(752年)に臣籍降下し、文屋姓を下賜された(なお、栗栖王の系統は曾孫の助雄がはじめて同姓の下賜を受けた)。
その後、他の天武系皇族が相次いで政争により粛清された中を生き延びた。
また、実現はしなかったが、神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御時には、吉備真備によって皇嗣候補に推された。

坂上田村麻呂と共に蝦夷征討に活躍した文室綿麻呂(智努王の孫)や、歌人の文屋康秀(大市王の玄孫)など、文室氏(文屋氏)は皇統が天武系から天智系に戻った後も平安時代初期まで活躍が確認されている。

御歌

万葉集に5首歌が残っている歌人でもある。
前述の文屋康秀とその子の文屋朝康も小倉百人一首歌人の一人だが、それぞれ長皇子からは5代・6代目の子孫にあたる。

宵に逢ひて朝面無み隠にか日長き妹が廬りせりけむ
霰うつ安良礼松原住吉の弟日娘子と見れど飽かぬかも(706年(慶雲3年)の文武天皇、難波行幸の際に歌った歌。)

我妹子を早見浜風大和なる我まつ椿吹かざるなゆめ
秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山そ高野原の上
丹生の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が弟いで通ひ来ね

[English Translation]