陸奥亮子 (MUTSU Ryoko)

陸奥 亮子(むつ りょうこ、1856年(安政3年)11月 - 1900年(明治33年)8月)は、明治時代の政治家で外交官であった伯爵陸奥宗光の夫人。
日本赤十字社正社員。
その美貌と聡明さによって「ワシントンD.C.社交界の華」と呼ばれた。

来歴

没落士族の旗本・金田蔀の長女として江戸に生まれる。
明治の初めに東京新橋柏屋の芸妓となり小鈴(小兼)の名で通る。
新橋で一、二を争う美貌の名妓だったという。
花柳界に身を置きながら、男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かったといわれる。
1872年(明治5年)2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、翌1873年(明治6年)に17歳で宗光に見初められて後妻となった。
先妻の遺した子は、長男広吉と次男潤吉、長女清子(さやこ)の3人だった。
結婚の翌年、宗光との間に娘が生まれており、1877年(明治10年)には舅にあたる伊達宗広が死去している。

1878年(明治11年)、政府転覆運動に荷担した疑いで夫の宗光が禁固5年の刑に処せられ、山形監獄(のちに宮城監獄)に収監された。
亮子は、宗光の友人津田家に身を寄せて姑政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えた。
宗光は妻亮子にたくさんの手紙を書き送っており、宮城監獄収監中に相愛の夫婦の慕情を漢詩にして亮子に贈っている。

1882年(明治15年)宗光は特赦によって出獄を許され、翌1883年(明治16年)から伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
宗光が外遊の間亮子に宛てた書簡は50通を越える。
1886年(明治19年)宗光帰国して政府に出仕。
社交界入りした亮子は、岩倉具視娘戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。

1888年(明治21年)、駐米公使となった宗光とともに渡米。
その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ「ワシントンD.C.社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。

[English Translation]