鬼室福信 (KISHITSU Fukushin)

鬼室 福信(きしつ ふくしん、生没年不詳)は、百済の王族・将軍。
義慈王の父である第30代武王 (百済)(余璋)の従子。
官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。
没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。

義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗沘城(現・忠清南道扶余郡)の奪還を試みた。
この頃、義慈王の王子であった扶余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。
斉明天皇・天智天皇は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。

『百済本紀』・『旧唐書百済伝』

『百済本紀』、『旧唐書百済伝』では、豊璋は翌662年5月に入国した。
このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。
倭国はこの後も福信あてに軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人続守言らを倭国に送った。
7月、扶余豊(扶余豊璋)は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した(出典)。

『日本書紀』

『日本書紀』では、663年6月に、百済王豊璋は福信の謀反を疑って捕らえ、その掌を穿って革紐で縛った。
それから諸臣に対して福信を斬るべきかと問うた。
達率(二品官)の徳執得は「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない」と答えた。
福信は執得に唾して罵ったが、王は福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。
福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に天智天皇から小錦下の位階を与えられ、天智8年(669年)近江国蒲生郡に送られ、そこで没したという。

墓所は鬼室神社(滋賀県日野町 (滋賀県))。

[English Translation]