鹿島房次郎 (KAJIMA Fusajiro)

鹿島 房次郎(かじま ふさじろう、1869年10月25日 - 1932年7月29日)は、広島県比婆郡庄原村(現・庄原市)出身の実業家、政治家。
第四代神戸市市長。

経歴

広島県の裕福な農家に生まれ慶應義塾で学んだ後、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学しボート選手として活躍。
卒業後、ミシガン大学に留学し法律、経済学を学ぶ。
帰国後、神戸の素封家・鹿島家の婿養子となる。
富裕な生活は保証されたがそれに飽き足らず1897年、28歳で神戸市役所に就職し水道部外事係嘱託となる。
しかし水道拡張工事に携わっていたため、二代目神戸市長・坪野平太郎が断行した人事の大ナタで1904年解職させられた。
同年、坪野市政に対抗するため、周囲の勧めもあって地方議会議員選に出馬し当選。
在任中激しい市政批判で坪野を辞任に追い込む役割の一端を演じた。

1906年助役を経て1910年、三代目市長・水上浩躬の辞任を受け、第四代神戸市市長に就任。
この頃、新興都市・神戸は国内屈指の重工業都市として飛躍的な発展を遂げたが、鹿島はさらに神戸を活性化させるべく様々な手を打った。
海岸部に企業が進出し、多くの労働者を必要とした神戸は、周辺からおびただしい労働者を吸収。
当時の住民の約40%が大阪府、徳島県、岡山県、広島県、京都府の出身者で、人口は20年余りで3倍の約40万人となっていた。
これを受け多くの公共事業に力を注ぐ。
水上前市長から始まった神戸港拡張工事の推進のほか、電灯・電鉄事業を公営化し市電敷設に尽力。
千苅ダム建設など、水道・電気事業に特に大きな力を発揮し"水道市長""電気市長""電鉄市長"などと多くの異名が付いた。

しかし都市の膨張は多くの問題を引き起こした。
第一次世界大戦の重工業の発達で人口が増加し児童も増えた。
小学校の運営は各学区に任されていたため、富んだ区と、そうでない区の教育差が歴然とし始めた。
これの解決に他都市に先駆け学区の廃止を実現させた。
これにより小学校が増加し教育設備も充実。
最初に新築した小学校は、国内初のコンクリート建築だったという。

1918年、米騒動が全国に普及。
真新しい港湾都市には生活基盤の弱い住民が多数おり騒動が激化、神戸の飛躍と共に成長した鈴木商店が焼き打ちに遭う事件も起きた。
鹿島は食料品や日用品を安く提供できる公営市場を増設した。
その他、東山病院の新築、神戸市立図書館の設置、湊川公園の開園、神戸海員ホーム開設、長田区などの埋立地、宅地化、市営と畜場事業開始等、在任11年間の業績は多岐に渡る。
その人格、傑出した手腕により後々まで名市長と語り継がれた。

1920年、三選を促されたが「二回まで重任したことすら過分だ」と要請を一蹴、二期の任期切れと共に職を辞した。
同年、川崎総本店総務理事となり、東亜セメント等、関係諸会社重役を兼ね、日本無線、日本航空輸送の創立に参与。
また神戸新聞社取締役の他1928年、神戸商工会議所会頭就任。
1924年には神戸山手学習院(現・神戸山手女子中学校・高等学校)を設立。
1927年金融恐慌で川崎造船(現・川崎重工業)が破綻、松方幸次郎初代社長引退の後を受け1928年川崎造船所と川崎汽船の社長に就任。
川崎重工業車両カンパニーを分離させる等、再建に努力したが在任中1932年死去した。

[English Translation]