黒田長政 (KURODA Nagamasa)

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。
筑前国福岡藩の初代藩主。

豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛、如水)の長男。
関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げたことから、筑前福岡藩52万3000石高を与えられ、その初代藩主となった。
父孝高と同じくキリシタンであった。

織田家臣時代

永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。
天正5年(1577年)から織田信長の人質として、織田家家臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城 (近江国)にて過ごした。
天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が信長に反旗を翻したとき(有岡城の戦い)、父の孝高は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで拘束された。
この時、信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、村重方に寝返ったと考えて長政を処刑しようとしたが、竹中重治の機転により、一命を助けられている。
天正10年(1582年)には秀吉の高松城 (備中国)攻めに従い、中国地方の毛利氏と戦った(備中高松城の戦い)。

羽柴(豊臣)家臣時代

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去すると、父と共に秀吉の家臣となる。

天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に大阪城の留守居を務めた。
その功績により、2000石を与えられる。

天正15年(1587年)の九州征伐では長政自身は日向国財部城攻めで功績を挙げた。
戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津市に12万5000石を与えられた。
天正17年(1589年)、父が隠居したために家督を相続し、同時に従五位、甲斐守に叙任した。

文禄元年(1592年)から行なわれた秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役にも渡海している。
長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒となった。
釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して5月7日にソウル特別市へ到達した。
5月初旬の漢城会議で黄海道を担当することとなった三番隊は平安道担当の一番隊と共に李氏朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略し、平壌まで進んだ。
6月初旬には黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。
8月初旬の漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固めることとなり、黒田長政は李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが攻略することが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守ることとなった。
同じく三番隊の大友義統は鳳山城・黄州城を拠点とした。
文禄2年(1593年)正月に中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長等の守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。
以後、明の攻勢を警戒して漢城へ集中した日本軍は碧蹄館の戦いで明軍を撃破し戦意を失った明軍と補給不足に悩む日本軍の戦いは停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。

和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。
6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤又兵衛が先陣争いで活躍した。
その後の南部布陣期の長政は機長城を守備することとなった。

慶長元年(1596年)9月に日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。
慶長2年(1597年)7月に元均率いる朝鮮水軍による攻勢があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。
長政は再度5千人の軍役を課せられ右軍に属して黄石山城を攻略し、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。
長政は加藤清正や毛利秀元等と右軍を形成して忠清道の天安へ進出した。
日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の禝山で遭遇戦(禝山の戦い)を行った。
苦戦した長政は秀元の援軍もあり何とか戦場を確保した。
なお、禝山の戦いについては、日明ともに勝利を報じている。

その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。

占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理楊鎬・提督麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。
長政はこの救援軍に六百人を派遣しており、後にその不活発さが秀吉から叱責されることとなる。
明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最西方)、順天倭城(最東方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。
結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。
慶長3年(1598年)9月に明将の麻貴率いる大軍の攻勢があったが、前年の教訓から明軍は不活発であり小競り合いに終わり(第二次蔚山城の戦い)、そのまま撤退を迎えた。

このように長政は朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。

関ヶ原

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との対立路線から五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎えた。

慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃した。

慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。
三成に対する恨みからか、本戦における黒田隊の活躍は凄まじかった。
長政は調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に52万3000石を与えられた。

江戸時代

慶長8年(1603年)、従四位下、筑前守に叙任される。

慶長19年(1614年)の大坂の役では江戸城の留守居を務め、代理として嫡男の黒田忠之が出陣。
翌年の大坂の役では2代征夷大将軍徳川秀忠に属して豊臣方と戦った。

元和 (日本)9年(1623年)8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京したが、まもなく発病して京都知恩寺で死去。
享年56。
後を長男・忠之が継いだ。

人物

父・孝高と違って知略の人物ではなく、武勇に優れた勇将であった。
但し、関ヶ原における調略を見ても分かる様に、知略が無かった訳ではない。
父ほどの知略は無かった、あるいは、父の知略がある意味人智を超えたものだった為地味に見られやすいが、智勇兼備の名将というべきであろう。

秀吉の死後は藤堂高虎に匹敵するかのように、家康に忠実に仕えた。
蜂須賀正勝の娘と離縁して家康の養女と結婚し、さらに家康の命令で普請事業に全て従順に従っている。
これにより、外様大名でありながらも優遇された。

長政が三成を恨んだのは、かつて父が失脚した一因に、三成との対立があったからだと言われている。
しかしこれには後日談があり、関ヶ原の合戦後に三成への侮蔑の言葉を浴びせずに、馬を降りて敵軍の将として敬意の念を示したのは、長政と藤堂高虎だけだったとも言われている。
この時、長政は自らの服を三成にかけて手向けの言葉を送ったという。

熟慮断行の気性であったようであり、父如水はそれを優柔不断のように見えたのか長政に「自分はかつて小早川隆景に物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたらしい。
長政はその言葉をヒントに後年「異見会」という家老と下級武士の代表を集め対等な立場で討論の上決断する仕組みを作ったとされる。

逸話

関ヶ原後、家康は長政の功労に手をとって喜んだとまで言われている。
帰郷してこの事を父如水に話すと、「その時左手は何をしていた」(即ちなぜその時左手に短刀を持って家康を刺さなかったかと言う意味)と詰問された話がある。

晩年には子の満徳丸(後の黒田忠之)の器量を心配して、いくつもの家訓(御定則)を与えている(御定則は後世の創作であるとも)。
また、一時は忠之を廃して黒田長興を後継者にすることを考えたとまで言われている。
後に忠之の時代に福岡藩が起こった事を考えると、この長政の心配は当たっていた事になる。

嫉妬深い一面があり、父如水が死去すると、黒田家随一の勇将で武功も多く、如水から大名なみの厚遇を与えられていた後藤又兵衛を追放し、さらに奉公構という措置を取った。
これは、長政が又兵衛の功績と、かつて如水に寵愛された事を嫉妬したからだと言われている。

忠之が4歳の袴着式を迎えた時、母里友信は「父上以上の功名を挙げなさい」と言ったという。
それを知った長政は「父以上の功名とは何事だ」と激怒し、友信を殺そうとしたという。
ただし、周囲の取り成しで命は助けられた。

死の床につき、家老宛に「徳川が天下を取れたのは、黒田父子の力によるもの」としたためた。
関ヶ原の戦いでの東軍勝利の影の功労者として、長政はこの戦いを生涯の誇りとしたという。

バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗した。
徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。

[English Translation]