京阪神緩行線 (Keihanshin Local Line)

京阪神緩行線(けいはんしんかんこうせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の大都市近郊区間のアーバンネットワークのうち、東海道本線京都駅~神戸駅 (兵庫県)間と山陽本線神戸~西明石駅間で運行される各駅停車の日本国有鉄道時代からの通称である。
JR化後この区間はJR京都線およびJR神戸線と呼ばれるようになった(呼び方も参照)。

狭義の区間は上記のとおり京都~西明石間98.7kmであるが、国鉄末期の加古川駅、草津駅 (滋賀県)への延長を皮切りに、現在では野洲駅~加古川間144.7kmが主な運行区間になっている。

本項では京都~西明石間を中心に記述し、関係する項目に関して、野洲~京都間、西明石~加古川間をはじめ、湖西線・福知山線・JR東西線などの直通運転区間も含めて記述するものとする。

呼び方

京阪神緩行線の呼称は特に定まった呼び方ではなく、別称として、東海道・山陽緩行線や大阪緩行、本線緩行などの様々な呼び方がある。
戦前から戦後しばらくの間は現在の新快速や快速列車に相当する列車を「急行」、略称としては新快速と呼んでいた。
このため、急行に対置する概念としての「各駅停車」として、このような呼び方が当時の関係者内部や鉄道趣味者の間で定着したものと思われる。
国鉄時代は国鉄関係者や鉄道趣味者の間では別称も含めて広く使われていた。
しかし、国鉄分割民営化後はJR西日本において「琵琶湖線」や「JR京都線」、「JR神戸線」などの線名の愛称が定められたことをはじめ、国鉄末期からの運行区間の拡大や、JR東西線の開業に伴い、福知山線やJR東西線などとの直通運転の開始によって定義があいまいになってきたことから、最近ではあまり聞かれなくなってきている。
ただし、現在でも関水金属製の鉄道模型の商品名などで使われている(例:「201系京阪神緩行線色」)。

運転形態

列車は、以下の駅を始発・終着として運行されている。

琵琶湖線・JR京都線(東海道本線)
野洲・草津・京都・高槻駅・大阪駅
JR神戸線(東海道・山陽本線)
尼崎駅 (JR西日本)・芦屋駅 (JR西日本)・神戸・須磨駅・西明石・大久保駅 (兵庫県)・加古川

現在の運転形態は、朝ラッシュ終了以降、京都~須磨/西明石間・西明石~尼崎(~JR東西線直通)・(JR宝塚線直通~)尼崎~高槻間の各系統が15分おきに運転されている。
その結果、京都~西明石間の各駅で1時間あたり8本の運転となっている。
ただし、新快速・快速電車と須磨・三ノ宮駅・芦屋駅 (JR西日本)・大阪で待避や相互接続を取るためにきれいな7.5分間隔とはなっていない。
また昼間の一部に京都から須磨で折り返すものがあり、塩屋以西で一部間隔の開く時間帯がある。
もともと1998年の改正で一旦すべて西明石まで延長された電車のうち、2006年改正で京都発の昼間時間帯が須磨折り返しに短縮されたものである。

また、京都以遠野洲・堅田、西明石以遠加古川までの乗り入れもあるが、現在は平日の朝夕時間帯が中心である。
国鉄末期に昼間時の西明石行きのうち1本は加古川まで延長運転されたが、のちに快速の西明石以西の増発に伴い、西明石発着に戻された。
一方大久保駅南側の神戸製鋼所工場跡地が大規模マンションとなったことから、朝ラッシュ時には大久保始発・終着の電車が設定されている。
このように京都西明石間を中心とする直通運転のため、通勤用車両使用としては比較的長距離となる運転区間が100kmを越えるものも見受けられる。

駅間距離が長く運転速度が高い一方で、新快速・快速との接続のため制約の多いダイヤなど条件が厳しい。
このため、JR西日本207系電車・JR西日本321系電車の性能をフルに生かしたダイヤを組んでいる。

なお、列車番号は西明石方面が下り扱い(奇数)となる。
列車番号の最後に付くアルファベットはC(休日はB)で、列車番号から「C電」と呼ばれることもある。

電車は複々線内の内側線(兵庫以西は電車線)を走る。
かつては、吹田駅 (JR西日本)、甲子園口を始発・終着とする電車があった。
また、朝夕ラッシュ時に鷹取駅~住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)を往復する神戸市内の小運転運行実施時に両駅を始発・終着とする電車があった。

阪神・淡路大震災被災後は西から西明石・須磨・神戸・灘駅、東からは甲子園口・芦屋・住吉とそれぞれ運転再開区間が拡大していった。

他線区との直通運転

アーバンネットワークの特徴として他線区との直通運転を柔軟に行っている。
前述のようにJR東西線を介して片町線とは木津(ただし、木津発は早朝の木津発西明石行1本のみで、早朝の一部を除けば松井山手駅始発・終着)まで、JR宝塚線(福知山線)とは篠山口駅(ただし、篠山口発は夜間の高槻行き(休日は京都まで延長)1本のみ。早朝、朝ラッシュ時、深夜の一部を除く大半は新三田始発・終着)まで、それぞれ直通運転を実施している。
また、湖西線とも堅田駅発着列車が1往復(休日は湖西線内のみの運行)、近江舞子行き列車が1本設定されている。

使用車両

2007年現在使用中の車両
321系の投入に伴って、201系が大阪環状線森ノ宮電車区と関西本線(大和路線)奈良電車区に、205系が阪和線日根野電車区に転出した。
その結果、最高速度が120km/hの207系・321系の両形式に統一された。

誕生の頃(1934年~1938年)

京阪神緩行線の歴史は、1934年7月20日の吹田~須磨間の電化開業と同時に、それまで運転されていた国鉄C10形蒸気機関車、国鉄C11形蒸気機関車などが牽引する京阪神間の区間運転列車を置きかえる形で始まった。
電化区間が吹田~須磨間となったのは現在ではやや中途半端な印象を与えるが、1926年の第52帝国議会で電化計画の協賛を受けた大津駅~明石駅間の一部であった。
また、大阪、神戸両市内の高架工事完成後は、大阪、神戸両駅での折り返しが困難になることから、外延部からの集客を兼ねて同区間で電化を実施した。
このとき、須磨~明石間でも電化工事を実施していたが、完成が吹田~須磨間の電化開業に間に合わなかったことから、電車に接続する形でガソリンカーを運転した。
2ヵ月後の9月20日には明石まで電化区間が延長され、緩行は吹田~明石間の運転となって、ガソリンカーを置きかえた。

電化と同時に宮原総合運転所に投入された42系電車は、緩行用としてはモハ43(モハ42)-クロハ59の2連を基本編成とした。
閑散時15分間隔、ラッシュ時には上り側にクハ58-モハ43(モハ42)を増結した4連、更にモハ42を増結した5連を10分間隔で運転した。
緩行電車でありながら二等車を連結しているのは、関東の京浜東北線同様都市間輸送路線であったことと、まだマイカーが普及していない時代であったことから、電化以前から二等車の需要が高かったことがあげられる。
更に、21世紀初頭の現在では考えにくいことだが、この地域では当時から女子の高等教育機関が多く、女学生の通学に二等車を使うことが多かったことも、二等車連結の理由にあげられている。

42系電車は当時の省電としては破格の車両であったが、並行するライバル私鉄の車両から比べると、普通車_(鉄道車両)の背ずりが板張りであったりしたことが、やや遜色があったといえる。
しかしながら、オーソドックスなデザインは極めて好ましいものがあり、後々まで多くの鉄道愛好者から好かれる車両となった。

このように、短編成によるフリークエントサービスを行なったのは、電化以前からのサービス向上もさることながら、阪急、阪神といったライバル私鉄を意識した面も多分にある。
しかしながら、電化と同時に六甲道等の新駅を開業し、併せて粘り強くフリークエントサービスを実施したことが、沿線での都市化の推進と乗客の獲得に寄与した。
その相乗効果で更に乗客数が増加し、増発、増結につながっていくこととなった。
緩行の増発・増結は、モハ42・43に余裕があったことからクハ58を増備することで対応した(この頃には三等車の背ずりも布張り)。
中でも、1936年に登場した、クハ58のラストナンバーであるクハ58025は、42系の側面に半流線型の前面を持つ、極めてスマートな車両であった。

その後、1937年10月10日の吹田~京都間の電化を前に、同年8月10日に明石操車場の一角に網干総合車両所明石品質管理センターを開設した。
また、その後40年近くにわたって京阪神緩行線を走り続けることとなる、モハ51、クハ68、クロハ69の51系各形式を新製投入した。
そして、京都までの電化開業後、緩行の運転区間も京都~明石間に延長され、「流電」モハ52や半流43系を主体とした京都~神戸間の急電が現在の新快速・快速の源流になったのと同様、現在まで続く京阪神緩行線の原型がここに確立したのである。
また、同時期に神崎(現在の尼崎)、住吉、鷹取の各駅に折り返し線が設けられ、ラッシュ時の小運転が開始された。

戦時下の試練(1938年~1949年)

京都まで電化開業したときには、すでに大陸での戦火が拡大していた。
この頃から、戦略物資を中心とした統制経済の拡大と奢侈の抑制が図られるようになっていた。
鉄道省もそれに呼応する形で、1938年11月1日から、省電区間での2等車の連結を廃止した。
このときは横須賀線と京阪神間の急電は除外されたから、具体的には京浜線と京阪神緩行線ということになる。
この時点ではクロハ59、69の両形式は3等代用として使用されていたが、1940年からクロハ59形の3扉化改造(クハ68形に編入)を実施することになった(ただし、急行編成は除く)。
また、この時期の変わった話題として次のような事があった。
当時の阪和電気鉄道が車両不足を補うために鉄道省に電車の貸し出しを申請、東京鉄道局からモハ34-クハ38の2連を借りた。
ところが、阪和自慢の阪和電気鉄道の車両等に比べるとあまりにもお粗末な内装に、乗客だけでなく会社側からも不満の声が上がった。
このため、慌ててこの2連を吹田~神崎間の小運転に投入するとともに、阪和にはモハ43-クハ58orクロハ59の2連を貸し出すこととなった。
この貸し出しは阪和が南海に合併され、後に国有化されるまで続くこととなる。

その後、日本は太平洋戦争に突入、1942年11月14日には急電を廃止し、これらの車両も緩行用に投入した。
しかしながらモハ52は流線型が災いして(乗務員用のドアがなかったことから)乗務員に嫌われてしまい、編成の中間に組み込まれることとなる。
また、この頃、輸送力増強として大阪環状線のモハ60、クハ55と本線のモハ51、クハ68をトレードして対応していた。
ついにはこのような小手先の対応ではどちらの需要もまかなうことができなくなってしまった。
そこで、当時の担当者が思いついたのが42系を4扉化して城東・西成線のモハ40系の台車と振り替えて城東・西成線に投入、代わりにモハ40系をモハ51として、ロングシートのまま京阪神緩行線に投入する、というものだった。
この改造は乏しい物資をやりくりしながら積極的に実施され、第1号のモハ43028(後にモハ64028を経て最終はクモハ31002)-クハ55106(元クロハ59022の改造で、とりあえずクハ55の連番として出場、クハ85026を経て最終はクハ79056)が1943年に登場した。
その後、多くのモハ43、クハ58が4扉化改造されることとなり、形式もモハ64、クハ85と改められた(モハ42の4扉改造車はモハ42のままモハ32(2代目)に改番)。
そして、あのクハ58025も4扉化改造されてしまい、クハ85025を経て、最後はクハ79055となった。
これらの改造と並行して、既存の車両の座席撤去、ロングシート化も推進され、1942年に横須賀線用(後には宮様の千葉陸軍戦車学校通学に伴い中央・総武緩行線に転属)の2等車として転出したクロハ69001, 002を除くクロハ69、クハ68の全車がクハ55に編入された。
これらの非常措置と併せて、1943~1944年にはモハ60を増備、1944年1月には6連化を実施して輸送力の強化を図った。
直後の1944年4月1日には明石電車区の南側にあった川崎航空機明石工場(現在の川崎重工業明石工場、現在はオートバイの工場だが、当時は陸軍の戦闘機三式戦闘機などを製造していた)への通勤客の輸送手段を確保するため、明石電車区の構内に西明石駅を設置、明石電車区所持者のみの客扱いを開始した(1946年2月1日から一般客の取扱いも開始)。
この西明石延長で京阪神緩行線の基本運転区間が確定した。

しかし、関係者の努力が通用したのもこの段階までだった。
1945年に入ると、日本本土が激しい空襲に見舞われた。
最初は港湾や軍需工場を狙ったものだったが、京阪神緩行線の沿線でも3月14日の大阪、3月17日の神戸両市の大空襲を皮切りに、B29から空母艦載機に至るまで、継戦能力の破壊と戦意喪失の両面から無差別攻撃が行なわれるようになった。
もちろん鉄道もその例外ではなく、いくたびともなく攻撃を受けるようになる。
京阪神緩行線の電車の被災は、1945年3月17日の神戸大空襲の際に、神戸駅で滞泊していた電車2両が全焼したのが始まりだった。
その後は、沿線各地の空襲に巻き込まれて被災するようになる。
7月7日の川崎航空機工場への空襲では、隣接する明石電車区も大被害を受け、「流電」モハ52系のラストナンバーであるモハ52006が全焼するなどの手痛い打撃を受けた。
それでも執拗な攻撃は止まず、奇しくも広島に原爆が投下された8月6日には、住吉駅構内で半流モハ43のトップナンバーであるモハ43038ほか4両が被災した。
戦災以外にも、物資不足によって故障車の補修もままならず、車両の稼働率は目に見えて低下していった。
このような状況の中、8月15日の終戦を迎えたのである。

戦後初期のほうが、戦時下より混乱がひどかった。
軍需工場への通勤はなくなったが、それに代わる多くの買出し者や、帰国した復員者に引揚者たちが電車に殺到した。
しかし、肝心の電車は空襲による被災と故障車の増加で稼働率は大幅に低下しており、数少ない稼動車も修繕部品の不足から故障車の仲間入りする車両が増加した。
このような中でも、連合軍による「白帯車」指定は京阪神緩行線に対しても行なわれ、旧クロハ69、クロハ59出身車を中心に、クハ55が7両白帯車に指定された。

ついには、故障車の増加に耐えかねて、京都~高槻間、明石~西明石間で運転本数を削減して予備車を捻出、その間に故障車の修理を急いだ。
さらに、客車列車の不足を補うため、大阪~姫路間で、国鉄C51形蒸気機関車牽引の42系の故障車ばかり集めた列車を運転した。
このような混乱も1946~1947年の間に63系の投入などで状況は好転の兆しを見せた。
戦時中に撤去された座席の整備や板張り窓の窓ガラス補修、室内灯の整備などが行なわれるようになった。
このうち、座席整備では2扉車はクロスシートの復活を実施したが、3扉車と4扉車ではロングシートの整備を実施した。
この時点では51系出自の旧クロスシート車もロングシート車として整備されることとなった。
こうして京阪神緩行線は徐々に復興し、ラッシュ時の吹田~神崎、住吉~鷹取間の小運転が復活した。
1949年4月には京阪間に急電が復活、6月には神戸まで完全復活することでようやく緩急あわせてダイヤ面では戦前の状態に復旧した。

戦後の黄金時代(1950~1959年)

ダイヤ面での復興がなると、次に車両面の復興が行なわれることになった。
具体的には、戦前同様のクロスシートサービスの提供である。
このために、東西を股にかけた大掛かりな車両の転配属が実施された。
まずは急電に80系を投入、それまで使用していたモハ52や半流モハ43を阪和線に転出させただけでなく、残りの整備済みの42系(流電や半流モハ43のサハも含む)を横須賀線に転出させ、横須賀線に応援に入っていた63系を他線に振り向けた。
同じ時期に、関西地区の63系の大半を関東地区に転出させた。
これらの車両を元手に、戦前中央線快速に配属され、戦時中にモハ41型への編入改造を受けたモハ51001~51026のうち、戦災廃車の3両を除いた23両全車を京阪神緩行線に転入させた(63系をトレードした大阪環状線・桜島線には、サロハ66改造のサハ78や、クハ47改造のクハ85が転入している)。
続いて、京阪神緩行線に残留していた戦時中の4扉改造車を城東・西成線に転出させ、代わりに51系出自の旧クロスシート車を中心に3扉車を京阪神緩行線に転属させた。

1951年の初めには、横須賀線と同時に京阪神緩行線にも70系が投入された。
当初はモハ70だけの投入であり、ジャンパ栓の違いから100番台に区分されたほか、
塗色も他形式に合わせてぶどう色1色であった。
こうして、京阪神緩行線所属車両の大半が3扉車となったことから、1951年から1952年にかけて宮原、明石所属の3扉車のクロスシート化が実施され、一部の車両を除いて70系と同様のクロスシートの整備、復活が行なわれた。
整備に際し、モハ51001~51026については、ギア比を変更して、元からの大鉄所属車と性能を合わせている。
その後、1953年の形式称号改正の際にはこれらのクロスシート車はすべて51系に編入された。
その結果、モハ54やクハ68のように、オリジナルの車両より他形式からの改造車のほうが多いといった形式も発生している。

また、1951年11月に白帯車の運行が廃止されると、旧白帯車の運転台側を2等室として仮整備して運行した。
さらに、関東に転出していたクロハ69001、002を明石に呼び帰し、併せて旧クロハ69のクハ55ともども、戦前並みに復元する工事を実施した。
この復元工事では単に復元するだけでなく、内装を当時の花形であった特別二等車に合わせてローズグレーの塗りつぶし(通常はニス塗り)にした。
また、シートはさすがに戦前同様固定クロスとロングのセミクロスシートであったものの、モケット地もエンジ色(当時の普通二等車は青色)とした。
さらに、室内灯のカバーも特別二等車と同じ物を取り付け、後に蛍光灯が実用化されると真っ先に導入された。
当時の担当者が「電車の特ロ(特別二等車の略称)」と自負するくらいの凝った内装であり、当時新製中だった国鉄80系電車・国鉄70系電車と比べても遜色は全くなかった。
かくして、これらの工事が終了した1953年頃には、車両面での復興もなしとげただけでなく、多くの面で戦前のレベルを超えたものになっていた。
戦前とは違い、3扉クロスシート車で揃えられた魅力は(ごく一部に72系やクハ55を組み込んだ編成があったにしても)他線では見られないものであり、「西の京阪神緩行線、東の横須賀線」として多くの鉄道愛好者にもてはやされた。
その中でも白眉とでも言うべきクロハ69組み込み編成は、西明石側からクハ68(後にクハ76)-モハ70-モハ70-クロハ69の4連で構成され、ラッシュ時には京都側に2両を増結し、6連で運行された。
また、クロハを組み込まない編成は3~4連で構成された。
その後も70系の増備は続き、1954年末からはクハ76も登場、ぶどう色一色で登場したため、「茶坊主」の愛称が付いた。
クハ76の配備両数は少なかったことから、基本編成の両端がクハ76という編成はなかった。
しかし、基本編成と付属編成の両端の車両がクハ76であったときは、意外な編成美を見せたものである。
70系は1957年まで増備され、全金属車の300代こそ入らなかったものの、合計65両が京阪神緩行線に新製投入され、投入当時のコンセプトどおりの活躍を見せた。
また、1956年3月には高槻電車区が開設され、宮原所属の緩行用車両が転属している。

1957年9月25日のダイヤ改正では、急電も含めて運転面での大きな変化が見られた。
茨木~大阪間の旅客線の複々線化に伴い、従来の緩行外側線、急行内側線の運転形態から、内側線を電車線(鉄道管理局管理)、外側線を列車線(本社管理)とした。
これにより走行線路を緩急同一にし、芦屋、高槻に停車することよって緩急結合運転を開始した。
併せて急電が快速に名称変更されている。
このときに、ラッシュ時の緩行の一部が7連化されたほか、小運転がいったん廃止された。
これ以外では、電化のたびに運転区間が拡大する急電(快速)と違って緩行には大きな変化はなかった。
車両形式図集に「大阪形電車」と記された51系と戦後生まれの70系が主役となって、1955年頃を中心に、京阪神緩行線の黄金時代を迎えることとなったのである。

輸送力増強の影での苦難(1960~1967年)

1950年代も後半に入ると、都市中心部を走る路線だけでなく、京阪神緩行線や横須賀線のような、当時としては中距離路線においても混雑緩和と輸送力の増強が求められるようになった。
中でも、横須賀線の輸送力増強は焦眉の急であったが、直流用の新性能近郊型電車の導入までにはまだ時間がかかることから、京阪神緩行線の70系を転属させて投入することにした。
つまり、中央線快速、山手線の新性能化や、大阪環状線西側の開業用に国鉄101系電車を投入、そこで捻出された国鉄40系電車、72系を京阪神緩行線に転属させることによって70系を捻出して東上させたのである。
このような形で、1960~62年にかけて明石、高槻の両区から70系の大半が大船に転属した。
さらに、阪和線快速の輸送力増強も同じ手法で実施したことによって、日根野電車区にも70系の一部が転出した。
また、この手法は動力近代化による新規電化区間の開業時においても使われた。
1960年10月の岡山地区の電化(上郡~倉敷、岡山~宇野間)に伴い、51系の一部が岡山電車区に転出したほか、1962年5月の信越本線新潟電化の際には70系とクハ68が転出している。
更に、京阪神緩行線の輸送力増強もこれらの転入車でまかなわれることになった。
ただ、この時期に中央線快速や大阪環状線から転入した72系は、比較的後期の新製車や920代の全金属車が多く含まれていたほか、後に可部線で活躍するクモハ73001のような全金属改造車もあったことから、後の72系転属車に比べるとまだレベルが高かった。

51, 70系の転出と72系の大量投入によって、3扉セミクロスシート車主体の京阪神緩行線の編成が大きく崩れることとなった。
中でもクロハ69組込の基本編成は何とかしてクロスシート車主体の編成を組もうと四苦八苦しながらモハ70やクハ68をかき集めるが、ついには72系の進出を許してしまう。
それでも大鉄局は何とか意地を見せて、72系の中でも920代の全金属車や72系新製車を中心に編成を組むことによりレベルダウンを最小限に食い止めようとした。
しかし、1961年から快速にサロ85の連結が開始されたことから緩行のクロハ連結の意義が低下、1962年10月には混雑緩和を理由にクロハの連結を廃止した。
クロハ69は翌年までにクハ55150代に格下げロングシート化改造されてしまう(廃止以前に事故で同様の改造をした車両も含めて編入)。
クロハの廃止は、京阪神緩行線が中距離のインターアーバンから通勤電車へと変貌するターニングポイントとなった。

確かに、京阪神緩行線の沿線人口は増加し、ラッシュ時の混雑は激化していたが、昼間時はさほど混雑していなかった。
このような線区への72系の投入は明らかなサービスダウンだが、51、70系が使い勝手がいい車両であったことと、72系を転用できる路線が限られていたことから、結果として京阪神緩行線が貧乏くじを引く結果となった。
しかも、輸送力増強用に関東から転入してくる72系は、これまた可部線で活躍するクハ79004のような戦時下生まれの鋼体化改造車や旧63系の改造車が大量に含まれていた。
加えて、それまでの整備が雑であったことから、どんどん車両のレベルが低下していった。
しかし、これらの車両を活用して1963年には現在同様終日7連化を実施(昼間時を中心に4連運行が残っていたため、完全7連化は1972年3月15日)した。
加えて、吹田~尼崎間の小運転を復活、1964年には甲子園口の配線改良(阪神武庫川線への貨物線跡地を有効活用)に伴い、小運転区間を延長、吹田~甲子園口間とした。
また、1965年3月には鷹取~西明石間の複々線化が完成したが、それに先立つ1961年6月に西明石駅の現在地への移転を実施した。
更に、翌1966年には京都~向日町間の貨客分離に伴って旅客線の複々線化が完成したことにより、緩行線が完全複々線化された。

さて、72系の投入を巡っては、国鉄本社と大鉄局とのあいだでの認識の違いがあった。
国鉄本社とすれば、京阪神緩行線と京浜東北線が同じような線区に見えたのだろうが、実際のところは大きな違いがあった。
まず、京浜東北線は田端~大井町間で東京都心を縦貫するが、京阪神緩行線で強いて似ている区間を挙げるとすると、神戸市内を縦断する六甲道~鷹取間ぐらいしかないし、都市規模があまりにも違いすぎる。
次に、大宮~桜木町間では当時から都市化が進んでいた。
これに対して、京阪神緩行線の場合は、京都を出て次駅の西大路で当時の京都市電西大路線と分かれると、高槻の手前まで駅周辺を除くと点在する工場と田園地帯が続き、その後も淀川を渡るまで工場と田園地帯と住宅地がまだらに続いていた。
このことは、京阪間より都市化が進んでいた阪神間においても同様で、沿線には田畑が多く残っていた。
須磨以西の宅地開発も進んでいたが、まだまだ郊外であった。
このような路線の違いがあったことから、京浜東北線では戦前からロングシート車主体の運行であり、京阪神緩行線は京阪神3都市と高槻、茨木、吹田、尼崎、西宮、芦屋、明石といった中規模の都市を結ぶインターアーバンであったために、51、70系といった3扉セミクロスシート車が投入された。
このように性格の違う両線区であったが、それ以上に違いがあった。
ライバルの存在である。

京浜東北線には、品川~横浜間で京急本線と並行するほかは並行路線が存在しない。
また、京急の優等列車の相手は横須賀線が務めることになるから、京浜東北線としては普通の相手だけしていればよかった。
しかも、旧型車主体で駅間距離の短い京急の普通はライバルにはなりにくい。

しかし、京阪神緩行線には、阪急京都本線・阪急神戸本線、阪神本線、山陽電気鉄道本線とほぼ全区間に渡って並行路線が存在した。
しかも、京阪神緩行線の駅間距離が長いことから、普通だけでなく急行クラスの優等列車とも勝負を余儀なくされる。
また、車両の面でも手強いライバル揃いであった。
阪急では阪急100系電車や阪急920系電車などの戦前生まれの車両のほか、阪急710系電車、阪急810系電車などの戦後初期の車両から阪急1010系電車・阪急1300系電車といった初期の高性能車に初代ローレル賞受賞車の阪急2000系電車・阪急2300系電車が主力として運用されていた。
急速に車両の大型化を進める阪神では、阪神3561・3061形電車特急車を筆頭に阪神3301・3501形電車、阪神7801・7901形電車といった赤胴車が優等列車に充当され、駅間距離の短い普通にはジェットカー(阪神5001形電車、 阪神5101・5201形電車ほか)が続々と投入され、たちまち旧型車を置き換えた。
山電も山陽電気鉄道820・850形電車といった元特急車のほか、2扉の特急車と3扉の通勤車が投入された山陽電気鉄道2000系電車、一部木造車が残っていた山陽電気鉄道100形電車を更新した山陽電気鉄道250形電車、山陽電気鉄道270形電車、流線型の山陽電気鉄道200形電車小型車を更新した山陽電気鉄道300形電車、広軌63系として有名な山陽電気鉄道700形電車を更新した山陽電気鉄道2700系電車と700系全金属改造車、そして現在も活躍する山陽電気鉄道3000系電車が運用されていた。
このように、各社とも戦前の名車から戦後の新車、更新車が勢揃いしていた。
京阪神緩行線もセミクロスシートの51, 70系であれば互角の勝負を挑めるが、中古の63系上がりの72系では、整備の行き届いた広軌63系の山電700系にも及ばなかった。
72系920代全金属車や全金属改造車でやっと阪神7801形と肩を並べる程度で、ライバル各線区の車両とは接客レベルに雲泥の差が生じてしまった。
線区の特性を無視した72系の大量投入によって、京阪神緩行線は魅力だけでなく競争力も急速に失っていった。
さらに拍車をかけるように1962年には阪急神戸線・阪神本線と山電を結ぶ神戸高速鉄道が着工され、建設が進められていた。

大鉄局としても手をこまねいていたわけではなく、新潟地区への70系投入についても当初はクモハ54の投入を検討したり(結局モーターの耐寒耐雪改造の関係でモハ70となる)、1964~65年にかけて、横須賀線の国鉄113系電車化の進展に伴って捻出された70系(流電用サハ48の3扉改造のサハ58も含む)を20両前後明石に転入させる(この中には、一度京阪神緩行線から転出した車両や京阪神緩行線唯一の70系300代全金属車であるクハ76305が含まれていた)など、何とかして「3扉クロスシートの京阪神緩行線」を維持しようとした。
しかし、ラッシュ時には300%近い乗車効率に達していたことから超満員の乗客でドアガラスが破損するなど、もはや3扉クロスシート車主体でラッシュ輸送に対応することが困難な情勢になっていた。
こうしたことから翌年の中央本線瑞浪電化で70系をほとんど根こそぎ大垣運輸区に転出させた一方で(サハ58は岡山に転出)、代わりに京浜東北線から大量の中古72系を受け入れて、昼間時の着席サービスを犠牲にすることでラッシュ時の輸送力増強を図った。
それでも51系は100両近く残留し、1968年10月1日の「ヨンサントオ」ダイヤ改正前後でも51系が60両、モハ70が3両残存していた。
このため、基本編成、付属編成のどちらかにこれらの形式を1~2両組み込むことでクロスシートサービスの維持を図っていた。
なお、快速においても従来の80系ではラッシュ時に対応が困難になってきたことや、競合する各私鉄が1960年代前半に特急用の新車を投入したことから、1964年から113系近郊形電車が快速に投入されている。

70年代は103系の時代(1968~1982年)

103系電車を設計した時には常磐線や京阪神緩行線は想定線区に入っていたが、実際に投入するに際しては何らかの手直し等が必要との認識をしていた。
それは103系自体が首都圏の通勤路線事情(駅間距離・表定速度・電力事情等)に適した設計となっていたからであった。
60キロ~80キロ程度でノッチオフすることが前提の形式で、それ以上高速で運転する事はあまり配慮されていなかった。
そのため、そういう運転が必要な京阪神緩行には運転はできても、線区特性上適してるかと言うと問題となった。

ただ、昭和40年度から2キロ台の駅間距離のある京浜東北線での運用開始に際し、103系のギア比を少し高速よりにセッティングする事や、MT54による通勤電車の可能性を模索した。
結局現状の103系と大きな違いは認められなかった事から駅間距離が2キロを超えるような線区でも特に手直しなく103系が使える事が確認できた。

その後昭和41年度より更に駅間距離が長い常磐線に投入される事になるが、先に京浜東北線投入時の研究結果があったために、ディスクブレーキ付きにはしたものの、抜本的な性能に変化はなかった。

大鉄局では昭和30年代に京都-神戸間の近距離快速電車の増発が目的で、低性能な旧形電車ではなく、快速から逃げ切れる高性能通勤電車を要求した事があった。
その性能は4扉ロングシート、歯車比が14.82程度、250%乗車時での均衡速度は103キロ程度、平均加速度は1.3m/h/sであった。
ラッシュ時の近距離快速電車の編成は15分間隔で6両~10両であり、国鉄本社としては快速増発のために新形式が必要なのであれば、増発せずに増結すれば良いとの結論を出している。

当時は、複々線区間でも快速電車と緩行電車は内側の電車線を共同で使っていた。
ラッシュ時には外側線に快速電車を運転したかったのだが、貨物や優等列車などの列車密度の関係と、芦屋や高槻駅の駅構造の問題があった。
大鉄局としては実質複線区間で快速と緩行の同時運転をする必要がある以上、快速なみの高速性能を有して待避駅間を逃げ切れる高性能緩行電車を要求せざるを得なかった。

1964年当時の大鉄局の認識も、内側線だけでのラッシュ輸送は飽和状態で、103系のような高加速車ではなく、中速での高速性能を加味したような形式を求めてはいたが、線路使用状況の変化によっては高性能緩行電車でなく103系のような在来型も適するとしている。

これは、快速の増発用に外側線を使えるような環境になれば、内側の快速を増発しなくても輸送力増強の目的は達せられる。
したがって、増発に必要な高性能緩行電車を求めなくても良いと言うことになる。
実際1966年10月からは芦屋・高槻の両駅が外側線からホームに入れる駅構造に変更になった事から、内側線の快速の一部を外側線に移行している。
したがって、大鉄局の求める高性能緩行電車の必要性は、この段階で不要になったと言える。

1968年(昭和43年)4月7日にはライバルの神戸高速鉄道が開通した。
対抗策として快速の113系化が1967年に完了しており、1968年10月1日の「ヨンサントオ」ダイヤ改正で従来の快速20分、普通10分ヘッド基準のダイヤから、現在と同様の15分ヘッドのダイヤとなった。

この段階で、快速と緩行の間に性能、サービスの両面から大きな差が開いてしまったことから、緩行への新車投入が急がれることとなった。
関西支社、大鉄局双方とも本社に対して以前から緩行への新車の早期投入を要請していた。
しかし、爆発的な通勤需要の伸びを見せる首都圏への新車投入が優先された。
その結果、京阪神緩行線への新車投入は待ちぼうけを食らい続け、新形式の導入を待っていたら1970年の大阪万博開催に間に合わない状況になってしまった。
万博開催までには新車を投入して欲しいという大鉄局の思いが103系の導入につながったのである。
実際、103系もこの頃には常磐線(現在の常磐快速線)や阪和線快速といった駅間距離も長く高速性能を要求される線区にも投入されていた。
このことから、京阪神緩行線に導入しても充分対応できると判断されたのである。
こうして、1969年8月8日から明石に103系の新製投入が始まった。
そして、翌年2月までに15編成105両が勢揃いして万博輸送に当たることとなった。

ところが、京阪神緩行線に投入された103系は、低速域での加減速は確かに51、70、72系より改善されたものの、60km/h以上の加速は全く伸びない、70km/h以上になるとモーターの冷却ファンが凄まじい騒音をまき散らしていた。

新形電車なので、最高速度を100km/hまで取る事ができたが、最高速度は実用限界とも言える95km/hで旧形電車の90km/hに対して性能面ではアップした。
電気ブレーキも使用できる事から制動距離も旧形に対しては有利であった。

万博終了後の1970年10月ダイヤ改正で新快速が誕生したが、既存のダイヤの隙間に新快速を増発したため、芦屋、新大阪、高槻で緩行が新快速、快速を連続待避するダイヤとなった。
なお、103系投入によって51系が飯田線や身延線、赤穂線などに転属したほか、72系が首都圏の周辺線区や阪和線などに転属した。
そして1971年の初頭には最後まで残ったモハ70が3両、仙石線に転属して、51系より先に70系が京阪神緩行線から姿を消した。

1972年2~3月にかけて、ヘッドライトのシールドビーム2灯化と側窓のユニットサッシ化が図られた1次改良車を15編成+予備4連×1本(計109両)を新製し、明石に投入した。
この一次改良車は京阪神緩行線のほかは常磐快速線(松戸車両センター)に投入された。

この1次改良車の投入によって昼間時の103系化が達成された。
山陽新幹線岡山駅延長による1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正(「1972年3月15日国鉄ダイヤ改正」)で新快速が15分ヘッド化されたのと同時に、京阪神緩行線のダイヤは大きく変更されてしまった。

特急以上の速度で15分間隔で走る新快速から逃げ切るには線区最高速度90キロの旧形では不可能であった。
昼間の全103系化がなされた事でようやく実現したのである。
それでも新快速運転中の京都~西明石間の直通運転は不可能となってしまった。

そこで、京都~甲子園口間、吹田~西明石間の2系統に分割された。
そのほか、新快速運転時は高槻、芦屋の両駅で新快速、快速を連続待避するほか、須磨で新快速を待避するダイヤとなってしまった。
このダイヤ体制はその後、1985年(昭和60年)3月13日まで13年続いた。

ただし、実用限界の95km/h以上の最高速度を要求された103系は、電気ブレーキ時の衝動などのトラブルが相次ぐ事になるが、それらも逐次問題点が明らかにされて解決されていく。
しかし緩行運転を2系統に分割したとはいえ、内側線は外側線と同じ閉塞割りであり貨物列車のブレーキ力を想定した信号配置であった事から、すぐに後続の列車に制限信号を与える結果となった。
15分サイクルに新快速・快速・緩行2本が走るという事は平均3分45秒間隔で電車が走る事になるが、その運転間隔をスムーズに運転するだけの閉塞割りでは無かった。
この点もあり、新快速の大阪-三ノ宮間では改正前の23分20秒から10秒増え23分30秒運転となっていた。

この時期になると、国鉄、私鉄を問わず、通勤電車にも冷房車が導入されるようになっていた。
急行「マリンライナー」・「山陽本線優等列車沿革」の国鉄153系電車を充当した新快速はともかくとして、1970年からは快速の113系の冷房改造も始まっていた。
そんな中で緩行の冷房化が行われることとなり、山手線、中央線快速、大阪環状線に続く4番手として、1974年1~3月に京阪神緩行線に新製冷房車が11編成77両投入されることとなった。
それも、高槻への103系初配属である。
このときから従来のように編成単位で投入するのではなく、東京向けのATC準備工事対応の高運転台制御車と京阪神緩行線向け中間車を新製、現地で制御車を差し替えて京阪神緩行線に投入するという手法を取るようになった。
ただ、このクハ103は前年に新製され、山手線と中央線快速に投入された量産冷房車で、ほぼ新車に近い車両であった。
また、このとき導入された冷房車編成の戸袋窓には「冷房車」の文字とペンギンのイラストが入ったステッカーが貼り付けられ、冷房車であることをPRした。

以上のように、3次にわたって103系を291両(41編成+予備4連1編成)投入したが、1975年になっても明石、高槻の両区には100両の51, 72系が在籍していた。
これらを置き換えるため、同年の4~9月にかけて103系を明石に35両(中間車5両×7本)、高槻に23両(中間車5両×4本+予備MM1ユニット+予備T1両)を投入した。
これに山手線ATC化準備工事Tcと差し替えたTc24両をも投入した。
これでもって7連×11本とバラ予備MM1ユニット+T1両(計80両)を編成して、京阪神緩行線の103系化を達成した。
京阪神緩行線103系は52編成+予備4両1編成+バラ予備MM1ユニット+T1両の計371両となった。
しかし、このとき振り替えられたクハ103は、初期の非冷房車ばかりで、このままでは中間車の冷房が使用できないことから、吹田、鷹取の両工場で冷房改造を行わねばならなかった。
それと同時に、間に合わない車両については冷房制御スイッチだけ取り付けたり、冷房車編成のTcを1両差し替えるなどした。
このようにして、四苦八苦しながら夏季を乗り切り、9月には新性能化を完了したが、Tc冷房改造の予備車捻出のため、翌年2月末まで暫定運用を組んで対応した。
こうして、立ち消えになってしまった105系計画ともども旧型車は全車引退した。
しかし、最後まで残った旧型車の中にはクモハ51が4両残っており、中でもクモハ51010は中央線投入組の生き残りで、新造時のままのガーランドベンチレーター装備車であったほか、残りの3両(51028, 51038, 51056)はモハ51として新製された。
それ以来、京阪神緩行線の生え抜きであった。
このほか、旧クロハ69のクハ55150代も阪和線に転出した1両を除き全車最終取替えで枕を並べて引退となり、京阪神緩行線の花形らしい最期を遂げた。

103系化後の京阪神緩行線は、1976年8月に高槻バラ予備のT1両を森ノ宮電車区に転属してきた京浜東北線のTc(入線時に冷房改造済み)に差し替えた。
1978年10月のダイヤ改正の際に、新造車と大阪環状線の予備T及び山手線の中古Tcに明石の予備車を活用して7連×2本+予備4両1編成(計18両)を編成、通勤時の輸送力増強を図った。
また、この頃から1次改良車の冷房改造を実施、1981年にかけて6本42両の改造を実施した。

分割民営化前後(1983~1994年)

103系化後しばらく平穏だった京阪神緩行線に、13年ぶりの新車として関西初のスカイブルーの国鉄201系電車が1982年12月に高槻に新製配置され、翌年1月には訓練運転を開始して2月21日から営業運転を開始、3月までに10編成が投入された。
201系の投入は1981年の中央線快速(試作車は1979年登場)、1982年の中央・総武緩行線に次いで3路線目だった。

103系のときとは打って変わった素早い新車投入であったが、これには片町線、関西線の老朽101系の早期取替えと、他線に比べて低い両線の冷房化率の向上という背景があった。
中でも関西線の101系は、前年8月の台風10号による王寺駅構内電留線の冠水による101系の大量廃車により、首都圏からこれまた廃車予定車の101系をかき集めて運行していたことから、これらの置換えは緊急の課題となっていたものである。

このような状況における京阪神緩行線への201系の投入は、片町、関西両線の老朽101系の取替えと冷房化率の向上につながるだけでなく、京阪神緩行線から高速性能のない103系を転出させることでスピードアップを図るという、一石三鳥の効果を狙ったものだった。
実際、201系は高速域から回生ブレーキを使えるというやや無理な要望が盛り込まれた車両であったが、搭載されたMT60型モーターが150kWと高出力であり、電機子チョッパ制御装置も将来近郊用に使用することを想定して開発されたものであったために、総体として103系とは比較にならないほど高い高速性能を持っていた。
そのほか、台車も空気ばねでシュリーレンタイプのDT46系台車を装備して、103系のDT33系台車とは雲泥の差の乗り心地(特に高速域)であった。
これらのことから、図らずして京阪神緩行線の特色に見事にフィットした車両となった。
また、乗客からも一目で新車とわかるブラックフェイスと明るい内装は好評を持って迎えられた。
それだけでなく、並行私鉄と比べても遜色のない車両であったことから、新快速の117系同様、防戦一方の国鉄のカウンターアタックのシンボルとなった。
このとき置き換えられた103系は、スカイブルーのまま片町、関西両線に投入された。
このほか、余ったT車は阪和線に投入されて快速の8連化に充当された。
また、一部の編成は運用ごと明石に転属して、高槻の配置は201系のみとなった。

201系の第2次投入は1983年6月から9月にかけて実施され、6編成が明石に配属されて103系を捻出し、片町、関西両線の101系を置換えた。
このときの103系捻出車は冷房車だけでなく1次改良車の非冷房車も含まれており、冷房改造の上転出したものもあれば、非冷房のまま転出した編成もあった。
また、余剰のT車は浦和、松戸など首都圏の電車区に移籍している。

201系の投入ピッチは早く、1983年の12月から1984年3月にかけて第3次投入分として7編成が明石に配属された。
同年11月からは、窓の2段上昇化やナンバーの転写表記化など、より一層のコストダウンを図った「軽装車」を9編成投入.。
こうして、高槻、明石両区合わせて32本、224両の201系が出揃った。
これによって関西線各停の103系化、片町線の非冷房101系の置換えと余剰T車を活用した7連化を実施した。

この時点で201系の割合が過半数に達したことから、1985年3月のダイヤ改正でいよいよ201系の性能を活かしたダイヤを組むことになった。
朝夕ラッシュ時には運転区間を加古川、草津まで延長したほか、昼間時の普通のうち毎時1本を加古川まで延長した。
昼間時は1972年以来の串刺しダイヤを解消し、高槻~西明石・加古川間の直通運転と吹田~甲子園口間の小運転に分割したが、京都~高槻間は快速を各駅に停車させて、緩行の運転を取りやめた。
現行のダイヤでもわかるように、201系であれば加古川~京都間を直通運行しても性能上問題はないのだが、そうするだけの編成数はなく、当時の状況では車両の増備もままならなかったことから、既存の車両だけで対応するにはスクラップ&ビルドもやむを得なかった。
国鉄末期の合理化の波はこれにとどまらず、1986年3月のダイヤ改正の際に、1線区1電車区の方針によって高槻配置の201系全編成が明石に転属し、運用の合理化を図った。

同年の8月には、これまた関西初の205系が4本、スカイブルーの帯を締めて明石に配属された。
これに伴い、103系を阪和線と武蔵野線に転属させた。
そのほか、11月の国鉄最後のダイヤ改正の際には201系と組んで緩行の増強を行った。
新快速が外側線(列車線)を走るようになったことから、余裕のできた内側線の増発分として、吹田~甲子園口間の小運転の運転区間を高槻~神戸間に延長、同時に、芦屋、須磨での新快速の待避がなくなったことからスピードアップを実施して、快速、新快速も併せて現在に至るダイヤの基礎を形成した。
1987年3月31日で国鉄が分割民営化されて翌4月1日からJR各社がスタートした。
この時期の京阪神緩行線の動きとしては、1987年から1988年にかけて103系の冷房改造を2本実施した程度である。

1989年以降、京阪神緩行線に残留した103系の動きが慌しくなってくる。
残留していた非冷房車の編成(全編成が1969年投入の最古参車)のうち、3本を4連化して福知山線に投入して同線の輸送力増強を実施、1本を冷房改造のうえ4連+3連の分割編成に改造して淀川に転出させた。
保留車として残存した非冷房の中間車を除くと、この時点で編成単位で残った非冷房車は1編成だけとなった。
このようにして、実質的に冷房化率100%となった。
この非冷房編成は翌年に阪和線ATS-P化のために日根野配属の非冷房車とトレードされることになった。
このときやってきた編成は京阪神緩行線初の全車中古編成で、MM2ユニットとT、西明石側のTcは山手線からの流れ組、京都側のTcはクハ101改造のクハ103-2052と、見事なまでの中古車揃いだった。

1991年3月のダイヤ改正では、昼間時の快速の西明石~加古川間15分ヘッド化に伴い、緩行の加古川乗り入れを朝ラッシュ時のみとした。
1991年秋には片町線(学研都市線)の207系量産車投入に伴う103系捻出車が転入、件の非冷房編成を置き換えたあ。
こうして、京阪神緩行線の冷房化率は名実ともに100%となった。
営業運行を外された非冷房編成はしばらく訓練車として使用されたが、後にMM2ユニットはWAU102冷房改造と延命NB工事を実施、TとTcは廃車された。
103系のシャッフルは更に続き、1993年には207系が投入された福知山線から高運転台Tcの編成が転入。
中間車を差し替えて先頭車とMMユニットは広島に転属した。
このようにして、京阪神緩行線における103系の最後の活躍に花を添えた。
そしてついに、1994年3月に207系1000番台を基本6連+付属2連の8連14本112両を高槻(吹田工場高槻派出)に投入、103系を完全に置き換えた。
こうして、1969年以来25年の長きにわたった(1983年の201系投入後は脇役に転じたが)京阪神緩行線103系の歴史にピリオドを打った。
このとき捻出された103系は、岡山、広島、奈良の各区に転出、老朽非冷房の113, 115系を置き換えた。
また、207系の投入によって、京阪神緩行線初の8連運行が始まったほか、6連運行も久々に復活した。
6連の場合には駅の時刻表に丸数字で掲示されていた。
同年9月のダイヤ改正では、週休2日制の拡大により、京阪神緩行線にも土曜・休日ダイヤが導入された。

アーバンネットワークの中枢として(1995年~)

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、京阪神緩行線は震源(朝霧駅沖の明石海峡)から武庫川(甲子園口~立花間)まで激甚被災地を貫いて走っていたことから、神戸市内を中心に強烈なダメージを受けた。
発災時刻が早朝であったことから、車両の面では大きな被害を受けなかったが、鷹取駅東方で地震に遭った201系が1編成、駅南東方で発生した大火災に奇跡的に巻き込まれずに高架線上に残っている姿は、繰り返し新聞やテレビで流された。
翌々日に高速神戸~阪神三宮間が復旧した神戸高速・阪神本線と併せて、発災以来約2週間ぶりで乗換えをはさみながらも三宮まで電車で到達することができるようになったのである。
復旧工事は夜に日を継いで実施され、2月8日には芦屋~住吉間が、2月20日には神戸~灘間が復旧、残るは高架橋が崩壊した六甲道周辺を含む住吉~灘間のみとなった。
西明石~灘間の復旧に伴い、輸送力増強のために201系の一部編成を8連化し、T車を抜いた編成2本を連結して12連で運行した。
この12両編成は、上りのみ緩行停車の朝霧、舞子、塩屋、鷹取のホームを延伸したため、下りは快速として運行された。
この他にも広島や日根野から103系をかき集めて西明石~灘間に投入、車両不足を補った。
その間にも新長田駅周辺の復旧工事を実施、3月10日にようやく営業を再開した。
そして、最終的に4月1日には全線復旧した。
復旧後に201系を元の7連に戻したほか、103系も福知山線に転用するなど、インフラ面も含めて復旧後も復元に向けた整備が続いたのである。
同年9月1日のダイヤ改正で、新幹線利用者の利便性向上のためラッシュ時の福知山線電車を吹田まで延長した。
また、震災から1年半経過し、神戸市内も徐々に復興の兆しが見え始めた1996年7月20日の改正で、昼間時の神戸止まりを需要の拡大を図るために須磨まで延伸、ちょうど夏の海水浴シーズンであったことから、海水浴客には大いに喜ばれた。

1997年3月8日のJR東西線開業に向けて、京阪神緩行線所属の207系の編成替えが、淀川、宮原両区配属の同系も含めて広く実施された。
松井山手における分割併合に配慮して、下り側に付属3連+基本4連の7連に変更され、編成両数は再び7連に統一された。
そして、東西線開業を契機に京阪神緩行線のダイヤは大きく変更されることとなった。
従来は高槻~須磨・西明石間の通し運行だけだったのが、西明石~松井山手間の東西線直通運用とそれに接続する尼崎~高槻間の区間運行及び須磨~高槻間の通し運行に2分割されたのである。
その後もダイヤの見直しは幾度か繰り返された。
京都駅ビルと尼崎駅の配線変更が完成した同年9月1日のダイヤ改正では、12年ぶりに昼間時の緩行の京都延長が復活した。
また、東西線直通が須磨始発に振り替えられた。
そのほか、JR宝塚線(福知山線)の普通と尼崎~高槻間の区間運転が一体化して、京阪神緩行線の一翼を担うこととなった。
この時の運用は京都→西明石→高槻→新三田→京都のローテーションで、この運用が2003年3月のダイヤ改正で京阪神緩行線(京都←→西明石)と京阪神緩行・JR宝塚線(高槻←→新三田)に分割されるまで続くこととなる。
また、直通運行が常態化することで福知山線の103系をカナリヤイエローに塗り分ける必要性がなくなった。
1999~2000年にかけて宮原所属の103系をスカイブルーに塗り替えている。
なお、103系は京都までの乗り入れは復活したものの朝ラッシュ時のみの運行で、尼崎以西には入線していない。

その後、1998年10月のダイヤ改正では、明石海峡大橋の開通と垂水、明石駅周辺の再開発が進んだことから、昼間時の須磨止まりの緩行21往復を西明石まで延伸したほか、朝ラッシュ時の大久保延伸も同時に実施された。
その後は湖西線方面への運行区間拡大を除くと大きな変化に乏しかった京阪神緩行線である。
2005年12月からJR西日本321系電車の投入が始まって国鉄201系電車・国鉄205系電車の置換えが開始され、すでに205系は全編成28両が阪和線(日根野電車区)に転出した。
そのほか、2006年3月のダイヤ改正で昼間時の京都←→西明石が京都←→須磨に変更されたため須磨折返しが復活した。

321系の投入により、201系は大阪環状線や桜島線用として森ノ宮電車区に8連16編成128両が転属し、また大和路線用に6連16編成96両が奈良電車区に転出した。
その結果2007年3月改正から207系と321系のみで運用されるようになった。

一方車両の高性能化を後押ししたのは新駅の開業である。
平行する私鉄に較べ長い駅間であったが、2007年3月には西宮駅 (JR西日本)(西ノ宮から改称)~芦屋間にさくら夙川駅が、2008年3月には山崎駅 (京都府)~高槻間に島本駅が、鷹取駅~須磨間に須磨海浜公園駅が、同年10月には西大路~向日町間に桂川駅 (京都府)がそれぞれ開業した。
京阪神緩行線はこれからも時代にあった変化を重ねながら、アーバンネットワークの中核線区としての役割を担い続けることとなる。

[English Translation]