日吉大社 (Hiyoshi Taisha Shrine)

祭神大山咋神(東本宮)大己貴神(西本宮)
社格式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社
本殿日吉造
別名山王権現
例祭4月12日 - 4月15日(山王祭)
日吉大社(ひよしたいしゃ、かつては「ひえたいしゃ」)は、滋賀県大津市坂本 (大津市)にある神社。
俗に山王権現とも。
日本全国に約2000社ある日吉神社の総本宮である。
旧社格は官幣大社。
中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮と東本宮を中心に、400,000m&sup2の境内を持つ。
ニホンザルを神使として崇拝することで知られている。
祭神
西本宮に大己貴神(大国主)、東本宮に大山咋神を祀る。

2つの本宮と以下の5つの摂社は日吉七社・山王七社と呼ばれている。
牛尾宮(大山咋神荒魂)大山咋神の荒魂
樹下宮(鴨玉依姫命)
三宮宮(鴨玉依姫命荒魂)鴨玉依姫命の荒魂
宇佐宮(田心姫神)
白山宮(菊理姫命)
歴史
文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。
磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。
三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請した。
以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。
延喜式神名帳では名神大社に列格し、さらに二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。
中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。
延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。
中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ち (1571年)により日吉大社も灰燼に帰した。
現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。
信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。
これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。
また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。
昭和初年に元の形に復した。
境内
かつては境内108社・境外108社と言われていた。
以下に示す21社は主なものである。
旧称は江戸時代までの神仏習合時代の名称である。
東本宮境内の各社は、「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。

文化財

正面から見ると入母屋造に見える。
しかし、背面中央の庇(ひさし)部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色。
東本宮本殿 - 1595年(文禄4年)の建立。
建築形式は西本宮本殿に似る。
昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていた。
重要文化財
以下の建造物は東照宮(江戸時代の建立)を除いて安土桃山時代の建立である。
西本宮拝殿
西本宮楼門
東本宮拝殿
東本宮楼門
日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋) - いずれも石橋である。
摂社宇佐宮本殿 - 西本宮本殿、東本宮本殿と同様、屋根は日吉造である。
摂社宇佐宮拝殿
摂社樹下神社(じゅげじんじゃ)本殿 - 樹下神社は東本宮と同じ敷地にあり、東本宮の参道と樹下神社の参道が直角に交わる、特異な配置になっている。
摂社樹下神社拝殿
摂社白山姫神社本殿
摂社白山姫神社拝殿
摂社牛尾神社本殿 - 牛尾神社と三宮神社は八王子山に位置し、拝殿は懸崖造になっている。
摂社牛尾神社拝殿
摂社三宮神社本殿
摂社三宮神社拝殿
日吉東照宮本殿・石の間・拝殿
末社東照宮唐門
末社東照宮透塀
日吉山王金銅装神輿 7基
史跡
日吉神社境内
指定解除された文化財
東照宮橋(石橋) - 旧国宝建造物。
昭和10年(1935年)6月29日、水害で流出し、指定解除された。

[English Translation]