知恩院 (Chion-in Temple)

知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。
山号は華頂山(かちょうざん)。
詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称する。
本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」と呼ばれている。

四条天皇から下賜された寺号は「華頂山知恩教院大谷寺」という長いものであるが、この名称は、寺の歴史を説明する時などを除いて通常は使われておらず、法人としての寺院名も「宗教法人知恩院」であることから、本項では「知恩院」と表記する。

起源と歴史

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。
法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。
13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。
18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名した。
法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。
承安 (日本)5年(1175年)、43歳の時であった。
「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。
この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。
法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。

法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。
ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。
ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。
文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されている。

現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長3年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。
造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和 (日本)7年(1621年)に建設された。
寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

伽藍

知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。
このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたものである。

三門(国宝)

本堂へ向かう急勾配の石段の途中に西面して建つ。
元和7年(1621年)の建立(平成の大修理で同年の墨書が発見されている)。
五間三戸の二重門である。
(「五間三戸」は正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっているもの。
「二重門」は2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう。)
高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、寺院の三門(山門)としては日本最大のものと言われている。
組物(軒の出を支える構造材)を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。
門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。
三門のひとつとされる説がある。

本堂(国宝)

三門をくぐり、急な石段を上った先の台地に南面して建つ。
寛永16年(1639年)徳川3代将軍徳川家光によって建立。
宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。
入母屋造本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。
建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。
柱間は正面11間、奥行9間で、手前3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の正面5間・奥行5間を内陣とする。
内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。
徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年、三門とともに国宝に指定されている。
屋根の上、中央に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。
2007年から屋根の修復作業が行われている。

阿弥陀堂

本堂の向かって左に東面して建ち、本尊阿弥陀如来坐像を安置する。
明治時代の再建だが、正面に掲げられている「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇の宸翰である。

経蔵(重要文化財)

本堂の東方に建つ宝形造本瓦葺き裳階(もこし)付きの建物。
三門と同じ元和7年(1621年)に建立された建物で、徳川二代将軍・秀忠寄進による宋版大蔵経六千巻を安置する輪蔵が備えられている。

宝仏殿

本堂の南側に北面して建つ寄棟造の仏堂。
平成4年(1992年)の建立で、内部には阿弥陀如来立像と四天王像を安置する。

大鐘楼(重要文化財)

宝仏殿裏の石段を上った小高い場所に建つ。
延宝6年(1678年)の建立。
ここにある梵鐘(重要文化財)は日本有数の大鐘で、寛永13年(1636年)の鋳造である。
この鐘楼で除夜の鐘を突く模様は年末のテレビ番組でたびたび紹介されている。

大方丈(おおほうじょう、重要文化財)

本堂の右手後方に建つ。
寛永18年(1641年)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの華麗な書院建築で、54畳敷きの鶴の間を中心に狩野一派の筆になる豪華な襖絵に彩られた多くの部屋が続く。

小方丈(こほうじょう、重要文化財)

大方丈のさらに後方に建つ。
大方丈と同じ寛永18年(1641年)に建立された建物で、襖には狩野派の絵が描かれているが、大方丈に比べ淡彩で落ち着いた雰囲気に包まれる。
東側の庭園は「二十五菩薩の庭」と呼ばれ、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものである。

権現堂

小方丈のさらに奥に建つ小規模な仏堂。
内部には知恩院の造営に関わった徳川三代(徳川家康・秀忠・家光)の位牌と肖像画を安置する。

山亭庭園

大方丈前から石段を上った山腹に位置し、京都市街を一望できる眺望のよい場所にある。
庭園は江戸時代末期の造営の枯山水庭園である。
山亭の建物は霊元天皇第10皇女浄林院宮吉子の御殿を宝暦9年(1759年)に下賜されたもので、明治時代に大改修を受けている。

勢至堂(重要文化財)

境内東側、急な石段を上った先の小高い場所にあり、本地堂とも呼ばれる。
付近は法然の住房のあった地である。
入母屋造本瓦葺き。
寺内の建物では最も古く、室町時代享禄3年(1530年)の建築。
建立当初は本堂(御影堂)であった。
内陣厨子内に安置する本尊勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、2003年に重要文化財に指定されている。
勢至菩薩を本尊とする堂は他にほとんど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものと思われる。
前述の山亭は勢至堂の客殿として建てられたものである。

法然上人御廟

法然上人の死後、門弟たちの手によって勢至堂の東に建てられたもので法然の遺骨を納めている。
浄土宗総本山として大伽藍を擁する知恩院にあって、喧騒から隔離された祈りの空間となっている。

以上の他、唐門、集會堂(しゅえどう)、大庫裏(おおぐり、「雪香殿」とも)、小庫裏(こぐり)が重要文化財に指定されている。
いずれも寛永復興期の建築である。

国宝

本堂(御影堂)(附歩廊)

三門

紙本著色法然上人絵伝48巻(国宝)-鎌倉時代の絵巻。

絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)-鎌倉時代の仏画。
通称「早来迎(はやらいごう)」。

菩薩処胎経-中国・西魏時代の大統16年(550年)の書写

大楼炭経-中国・唐時代の咸亨4年(673年)の書写。

上宮聖徳法王帝説-聖徳太子の伝記で、現存唯一の写本。
平安時代後期。

以上のうち、菩薩処胎経以下の3件は、幕末から明治にかけて門主を務めた養鸕徹定(うがいてつじょう、1814-1891)の収集品である。
国宝指定物件のうち、絵画、書跡は京都および奈良の国立博物館に寄託されている。

重要文化財

建造物
大方丈(附玄関及び歩廊)
小方丈(附歩廊)
集會堂(しゅえどう)(附玄関)
大庫裏(おおぐり)(附歩廊及び玄関)- 雪香殿とも称する。

小庫裏(こぐり)(附歩廊)
唐門
大鐘楼
経蔵
勢至堂

美術工芸品
綾本著色毘沙門天像
絹本著色阿弥陀経曼荼羅図
絹本著色観経曼荼羅図
絹本著色紅玻璃(ぐはり)阿弥陀像
絹本著色地蔵菩薩像
紙本著色法然聖人絵 奥に釈弘元とあり 1巻
絹本著色阿弥陀浄土図 淳煕十年の年記がある
絹本著色桃李園金谷園図 2幅
絹本著色蓮花図 2幅
絹本著色牡丹図
押出鍍金三尊仏 2面
木造阿弥陀如来立像(本堂安置)
木造善導大師立像(本堂安置)
木造勢至菩薩坐像(勢至堂安置)
刺繍須弥山日月図九条袈裟 屏風仕立
海竜王経 4帖
紺紙金字後奈良天皇宸翰阿弥陀経
大唐三蔵玄奘法師表啓
十地論歓喜地 巻三
順次往生講式
大通方広経 巻下
中阿鋡経 第廿九
註楞伽経 巻第五
超日明三昧経 巻上
菩薩地持論 10帖
法華経玄賛巻第三・法華経玄賛巻第二・第七・第十
瑜伽師地論 81帖、1巻
宋版一切経 5,969帖
三略 上中下
天平年間写経生日記

知恩院の七不思議

鶯張りの廊下

御影堂から大方丈・小方丈へ至る約550mの廊下で、歩くと鶯の鳴き声に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれ、静かに歩こうとすればするほど音がする。

白木の棺

三門楼上に安置されている二つの白木の棺で、中には将軍家より三門造営の命を請け、三門完成後に工事の予算が超過したため責任をとって自刃したと伝えられている大工の棟梁・五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められている。

忘れ傘

御影堂正面軒下に名工・左甚五郎が魔除けに置いたとも、白狐の化身・濡髪童子がおいたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされている。

抜け雀

狩野信政が描いた大方丈の菊の間の襖絵で、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりにも上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれる。

三方正面真向(まむき)の猫

大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれている。

大杓子

大方丈入口の廊下の梁に置かれている長さ2.5m・重さ約30kgの大杓子で、阿弥陀仏の大慈悲ですべての人が救いとられるという一切衆生救済を表したものである。

瓜生石(うりゅうせき)

黒門への登り口の路上にあり、知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったと伝わる。

幹部

法主:服部法丸
執事:佐藤諦学

所在地/交通アクセス

(住所)
〒605-0062 京都市東山区新橋通り大和大路東入ル3丁目林下町(りんかちょう)400
(アクセス)
バス・京都市営バス知恩院前バス停、または京阪バス神宮道バス停下車、徒歩7~8分
鉄道・京都市営地下鉄東西線東山駅_(京都府)下車、1番出入口(階段のみ)より徒歩約10分、京阪電気鉄道京阪本線四条駅 (京阪)、または阪急電鉄阪急京都本線河原町駅 (京都府)より徒歩約20分
自動車・名神高速道路京都東インターチェンジ、または京都南インターチェンジから約30分

[English Translation]