笠置寺 (Kasagi-dera Temple)

笠置寺(かさぎでら)は、京都府相楽郡笠置町にある真言宗智山派の仏教寺院。
山号は鹿鷺山(かさぎさん)。
本尊は弥勒仏。
開基は大友皇子または天武天皇と伝える。
歴史的に南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。
また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。

概要

笠置寺は京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川 (京都府)の南岸、標高289メートルの笠置山 (京都府)を境内とする。
笠置は奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる地であり、地理的にも歴史的にも南都(奈良)との関わりが深い。
また、平城京の宮殿や寺院などの建築用材は木津川の上流から舟で運ばれたとされており、笠置は水陸交通の要地であった。

笠置寺は磨崖仏(まがいぶつ、自然の岩壁に直接彫り刻んだ仏像)の巨大な弥勒仏を本尊とする寺で、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。
笠置山は、標高は300メートルに満たないが、山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、古くから山岳信仰、巨石信仰の霊地であったと推定されている。
日本では太古から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えないカミの宿る場所とされていた。
笠置山はこうした巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、次第に仏教寺院としての形を整えていったものと推定されている。

創建伝承

笠置寺の創建については諸説あって定かでない。
『笠置寺縁起』には白鳳11年(682年)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。
一方、『今昔物語集』巻11には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、次のように伝えている。
天智天皇の子である大友皇子はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。
そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。
大友皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった。
これが笠置の地名の起こりであるという。
その後、皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。
しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだという。
これが笠置寺の弥勒磨崖仏の由来であるという。
以上の話はむろん伝承にすぎないが、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを示唆している。
『東大寺要録』元慶元年(879年)条に「笠置寺八講始行」とあるのが笠置寺の文献上の初見であるが、実際の創建は奈良時代にさかのぼるものと思われる。

「お水取り」の起源

また笠置寺には東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁(ろうべん、689 - 773)や、その弟子で「修二会」の創始者とされる実忠にかかわる伝承も残っている。
伝承によれば、良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。
一方、良弁の弟子・実忠にかかわる伝承は次のようなものである。
笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天へつながっていると言われていた。
実忠はある日龍穴で修行中、思い立って龍穴の奥へと歩いていくとやがて兜率天に至った。
兜率天の内院四十九院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺のお水取りであるという。

貞慶の来山~元弘の乱

平安時代後期には末法思想(釈迦の没後2,000年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かった。
永延元年(987年)、円融天皇の行幸(百錬抄)、寛弘4年(1007年)、藤原道長の参詣(御堂関白記)などが記録に残っている。

鎌倉時代初期の建久4年(1193年)には、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい、1155 - 1213)が笠置寺に住している。
貞慶は藤原通憲(信西)の孫にあたり、鎌倉時代に台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧である。
学僧として名が高かったが、南都の仏教の退廃を嘆き、笠置に隠棲した。
以後、承元2年(1208年)、観音寺(海住山寺)に移るまでの十数年間を笠置で過ごしている。
この時期に寺は最盛期を迎え、伽藍が整備された。
建久5年(1194年)には般若台が建立される。
これは大般若経を安置する六角形の堂であった。
建久7年(1196年)には俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん、東大寺大仏殿の再建に尽力したことで知られる)によって梵鐘(現存)や宋版大般若経が施入され、建久9年(1198年)には木造の十三重塔が建立された。
元久元年(1204年)には源頼朝が礼堂(弥勒磨崖仏を礼拝するための建物)の再興費として砂金を寄進している。
寛喜2年(1230年)には東大寺の学僧・宗性が入寺した。

元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵した(元弘の乱)。
笠置山は同年9月に落城、後醍醐は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。
この戦乱時の兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。
笠置山には弥勒磨崖仏の他に薬師石、文殊石、虚空蔵石、両界曼荼羅石などがあり、かつてはそれぞれに線刻の仏像や曼荼羅図が刻まれていたが、兵火でほとんどが失われ、わずかに虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみが当初の姿をとどめている。
弥勒磨崖仏は高さ約16メートル、幅約15メートルの岩に刻まれたが、現状では光背の窪みが確認できる程度で像の姿は全く失われており、往時の像容は「覚禅鈔」(図像集)所収の図像や、大和文華館所蔵の「笠置曼荼羅図」(重要文化財)からしのぶほかない。
「笠置曼荼羅図」には、弥勒磨崖仏と木造十三重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
なお、奈良県宇陀市の大野寺に現存する弥勒磨崖仏は笠置寺の磨崖仏を模したものとされている。

寺は暦応2年(1339年)に再興されるが、文和4年(1355年)再び焼失。
永徳元年(1381年)には本堂が再興されるが(文明14年・1482年の勧進帳)、応永5年(1398年)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなかった。

元和5年(1619年)、笠置は伊勢国津藩の所領となった。
藩主藤堂高次は慶安年間(1648 - 1652年)に笠置寺本堂を再興した。
しかし、近世末には衰退して明治時代初期には無住となってしまった。
現在の寺は明治9年(1876年)に再興されたものである。

境内

山門をくぐると本坊、毘沙門堂(2004年建立)、収蔵庫、鐘楼(コンクリート造)などが建ち、その奥に一周約800メートルの修行場がある。
修行場には「胎内くぐり」「蟻の戸渡り」「ゆるぎ石」などと名付けられた岩が点在しており、途中に弥勒磨崖仏(現在は光背を残すのみ)、正月堂(弥勒磨崖仏の礼堂)、石造十三重塔、虚空蔵菩薩磨崖仏、後醍醐天皇行在所跡などがある。

また、歴史的なものではないが、笠やん追悼碑もある。
これは、1990年代に笠置寺に住み着き、案内をする名物猫として有名になった野良猫「笠やん」の追悼碑である。

重要文化財

石造十三重塔 - かつて存在した木造十三重塔の跡に建てられている。
鎌倉時代末~室町時代の建立。

梵鐘 - 建久7年(1196年)の作。
銘文から、大和尚南無阿弥陀仏(俊乗房重源)が笠置寺の般若台(大般若経を安置する六角堂)の鐘として寄進したことがわかる。
最下部に6つの切り込みを入れて六葉形にするのは中国鐘に見られる形式で、日本の梵鐘には珍しいものである。
また、銘文を鐘の側面でなく下面に刻むのも珍しい。
重源と貞慶という鎌倉時代仏教界の高僧2人の交流を証するものとして史料的にも貴重である。

地蔵講式・弥勒講式

その他の文化財

虚空蔵菩薩磨崖仏 - 元弘の乱の戦火をまぬがれて現存する磨崖仏。
花崗岩の絶壁に蓮華座上に坐し、右手を挙げ、左手を膝上に置く形の菩薩像を線刻する。
虚空蔵菩薩と称されているが、如意輪観音とする説もある。
制作年代についても比較する作例に乏しいことから定かでなく、奈良時代とも平安時代とも言われている。

交通

JR関西本線笠置駅から徒歩約40分

[English Translation]