随心院 (Zuishin-in Temple)

随心院(ずいしんいん・ずいしんにん)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。
小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。
本尊は如意輪観音。
当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。

寺紋

九条藤

歴史

随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。
仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。
神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。
曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。
伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。
それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。
なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。

第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。
続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。
東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。
その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。

その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失した。
『随心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。
その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。
御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院は「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。
随心院は小野派本山となった。
その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。
昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。
現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、随心院は同派大本山と位置づけられている。

境内

本堂
上記のとおり桃山期(1599年)の建築で寝殿造り。

薬医門、玄関、書院
九条家ゆかりの天真院尼の寄進により寛永年間(1624年-1631年)に建造されたと伝える(なお、天真院尼の出自についてはあまり定かでない)。
花鳥山水の図、虎の図などの襖絵がある。

能の間
九条家の寄進により宝暦年間(1753年-1764年)に建造された。
平成3年(1991年)に改修工事が行われた。

総門、庫裡
宝暦3年(1753年)二条家よりの移築、庫裡は同家の政所であったもの。

小野梅園

境内には約230本のウメの木がある。
山紅梅、白梅、薄紅梅などがあり2月末から咲き始め3月中旬が見頃となる。
もっとも多い薄紅梅の色である薄紅梅色を「はねずいろ」ということから「はねずの梅」とも呼ばれている。

小野小町ゆかりの遺跡

随心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。
宮中で仁明天皇に仕え歌人として知られる小野小町もこの地の出で宮中を退いて後も過ごしたとされる。
随心院には小町の晩年の姿とされる卒塔婆小町像を始め文塚、化粧の井戸などいくつかの遺跡が残る。

文化財

重要文化財
木造阿弥陀如来坐像(平安時代後期)
木造金剛薩埵(こんごうさった)坐像(鎌倉時代、快慶作)
絹本着色愛染曼荼羅図
随心院文書
紙本金地着色蘭亭曲水図 八曲屏風二双 伝狩野山雪筆

史跡
随心院境内

年中行事

施設

随流講傳所

随心院墓所(境内)

[English Translation]