高山寺 (Kozan-ji Temple)

高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。
栂尾は京都市街北西の山中に位置する。
高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗御室派系の単立である。
創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。
「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。
境内が国の史跡に指定されており、また古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。

起源と歴史

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。
今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。
平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。
これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(みょうえ)である。
明恵房高弁(1173-1232)は承安 (日本)3年(1173年)、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれた。
父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。
幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。

明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。
「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽天皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。
この時が現・高山寺の創立と見なされている。
「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

伽藍

建永元年の中興から20数年を経た寛喜2年(1230年)に作成された高山寺境内の絵図(重文、神護寺蔵)が現存しており、当時の様子が具体的にわかる点で貴重である。
それによると、当時の高山寺には、大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などがあったことが知られるが、このうち、当時「経蔵」と呼ばれた建物が「石水院」として現存するほかは、ことごとく失われている。
石水院から開山堂に至る道の両側に残る石垣は、かつての諸堂や塔頭を偲ばせている。

石水院(国宝)-鎌倉時代の建築。
入母屋造、杮(こけら)葺き。
後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。
外観は住宅風だが、本来は経蔵として造られた建物を改造したものと見られる。
もともとは金堂の右後方に残る石段の上に建っていたが、明治22年(1889年)に現在地に移築したものである。

他に、仁和寺から移築した金堂、明恵の肖像彫刻(重文)を安置する開山堂などがあるが、いずれも近世の建築である。

境内には「日本最古」と伝える茶園がある。
鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西が、当時の中国の南宋において種を得て、帰国後に明恵に贈ったものと伝える。
明恵はこれを初めは栂尾山に植え、その後宇治その他の土地に広まったという。

文化財

数多くの文化財を所蔵するが、建造物を除く指定文化財の大部分は東京および京都の国立博物館に寄託されている。

国宝

石水院

紙本墨画鳥獣人物戯画 4巻 - 甲乙丙丁の4巻からなる絵巻。
すべて墨画で彩色はない。
また、普通の絵巻のように絵と詞(ことば)が交互に現われる形式ではなく、絵のみで構成される。
甲巻は兎、蛙、猿などの動物を擬人化したもので、4巻の中でもっともよく知られる。
乙巻は写生風の動物絵、丙巻は前半が各種の競技やゲームに興じる人物の戯画で、後半は動物戯画、丁巻は荒々しいタッチの人物戯画である。
制作年代は甲・乙巻が平安末期、丙・丁巻は鎌倉時代と推定される。
制作事情、主題等については諸説あるが、特に甲巻のユーモラスな動物戯画は秀逸で、現代日本の漫画文化のルーツとも見なされる。
現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託されているため寺で見られるのは模本である。

紙本著色華厳宗祖師絵伝 7巻 - 鎌倉時代の作。
新羅の華厳宗の祖とされる義湘と元暁の伝記絵巻である。
国宝指定時は全6巻であったが、修理後は7巻に調巻されている。

紙本著色明恵上人像(絵画)-「樹上座禅像」と称される。
通例の祖師像と異なり、明恵の姿は山中の自然景の中に小さく表現されている。
鎌倉時代の作。

絹本著色仏眼仏母像(絵画)- 鎌倉時代初期、12世紀末の作。
明恵の念持仏であり、図中には明恵自身による書き込みがある。

玉篇(ぎょくへん)巻第廿七 - 中国梁代成立の漢字辞書「玉篇」の、唐時代の写本。
本書の写本は中国では早くに失われて日本にしか残っていない点で貴重。

篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)- 空海の編さんとされる漢字辞書の唯一の古写本として貴重。
永久2年(1114年)の写本。

冥報記(めいほうき) - 唐代成立の仏教説話集の写本で、成立から2世紀ほど後の唐代末期の写本とされる。
本書は中国では早くに失われており、現存最古写本として貴重。

重要文化財

乾漆薬師如来坐像-奈良時代末期の作。
元来は薬師三尊像の中尊であった。
両脇侍像は明治時代に寺外に流出し、日光菩薩像は東京国立博物館、月光(がっこう)菩薩像は東京藝術大学大学美術館に所蔵されている。

木造明恵上人坐像-開山堂に安置。
鎌倉時代の作。

木造鹿1対-鎌倉時代。
雌雄の鹿を狛犬風に作ったもので、他に例を見ない。
鹿は春日明神の使いとされ、高山寺鎮守の春日明神の神前に置かれたものと思われる。

木造白光神(びゃっこうしん)立像-鎌倉時代初期。
白光神は、インドの神とされ、善妙神(中国の神)、春日明神(日本の神)とともに高山寺の鎮守神として祭られた。
名前の通り、着衣から台座まで真っ白に塗られているが、これはヒマラヤの雪を象徴するものという。

木造善妙神立像-鎌倉時代初期。
鮮やかな彩色がよく残る。
白光神像とともに、仏師湛慶の作と推定されている。

高山寺典籍文書(もんじょ)類9,293点-高山寺に伝来する平安時代から近世に至る仏典、記録等を一括指定したもの。

高弁夢記(こうべんゆめのき)17点-「高弁」は明恵のこと。
明恵が自分の見た夢を記録した日記であり、夢の中での宗教的経験が彼の思想に大きく影響していることがわかる。
建久7年(1196年、23歳)から貞応2年(1223年、51歳)までのものが残っている。

以下は高山寺所有の重要文化財の一覧である(上に略説したものも重出している)。

(建造物)
宝篋印塔
如法経塔(石造一重塔)

(絵画)
絹本著色華厳海会諸聖衆曼荼羅図
絹本著色五聖曼荼羅図
絹本著色熊野曼荼羅図
絹本著色不空三蔵像
絹本著色文殊菩薩像
絹本著色菩薩像(寺伝弥勒菩薩像)
絹本著色明恵上人像
紙本淡彩藤原兼経像
紙本墨画高僧像
紙本墨画将軍塚絵巻
紙本墨画達磨宗六祖師像

(彫刻)
乾漆薬師如来坐像
木造狛犬 一対
木造狛犬 三対
木造鹿 一対、木造馬 1躯、木造犬 1躯(注:「馬」と「犬」は2001年度追加指定)
木造善妙神立像
木造白光神立像
木造明恵上人坐像(開山堂安置)

(工芸品)
阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子 弥勒菩薩像納置
黒漆机
木製彩絵転法輪筒
輪宝羯磨蒔絵舎利厨子

(書跡典籍)

華厳宗一乗開心論 巻下
華厳孔目章 巻第一、第二、第三、第四
華厳伝音義
義天録 巻第一、第二・第三 2巻
金剛頂瑜伽経 巻第一、第二、第三
倶舎論中不染無知断位料簡
古華厳経(黒漆函入)54帖
釈迦五百大願経 上下
新訳華厳経音義
貞元華厳経 38巻
貞元華厳経音義
梵天火羅図 1帖
明恵上人詠草
華厳信種義 明恵上人筆
大唐天竺里程書 明恵上人筆
入解脱門義 上下 明恵上人筆

大法炬陀羅尼経要文集 明恵上人筆
弥勒上生経 石川年足筆
史記 巻第三、第四
論語 巻第四、第八
論語 巻第七、第八
荘子 7巻
宋刊本斉民要術 巻第五、第八
宋版華厳三昧章 法蔵述
宋版金光明文句護国記 如湛述 4帖
宋版金剛記外別解 笑庵観復述 4帖
宋版法蔵和尚伝 崔致遠結
高弁夢記 1巻、9通、2帖、2冊、3幅
高山寺典籍文書類 9,290点
神尾一切経蔵領古図 2幅

[English Translation]