北面武士 (Hokumen no bushi (the Imperial Palace Guards for the north side))

北面武士(ほくめんのぶし)とは、太上天皇に仕え、院の北面下臈に詰め、身辺の警衛あるいは御幸に供奉した武士のこと。

北面の創設と院政時代

北面は、11世紀末白河天皇が院政を開始してほどなく創設された。
院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らをいう。
『愚菅抄』にはこう書かれている。

「此御時、院中上下の北面を置かれて上は諸大夫、下は衛府所司允(じょう)が多く候(さぶらい)て、下北面御幸の御後には箭(や)負(おい)て、つかまつりけり、後にも皆其例也」

そこにいわれるように、上北面と下北面があり、上(シャウ)は殿上の2間が詰所となって、院の殿上人。
四位・五位の諸大夫層の廷臣が中心となる。
ただし五位以上ならこちらという訳ではなく、あくまで院昇殿を許されれた者の詰め所であり、かつ役割が異なる。

武士が居たのは殿上ではなく、「下」(カ、またはケ)で、御所の北の築地に沿う五間屋であるが、こちらも武士だけではなく、白河院の「御寵童」(男色の相手)や、護持僧なども含んでいた。
「下臈」ともいう。
後に寺院の強訴や僧兵に対抗する時も効果を発揮した。
北面の武士は、武者所や滝口とは異なり、それぞれがある程度の武士団を従える将軍、高級将校クラスであり、1118年の延暦寺大衆を鎮圧したときに彼らが率いた武士団は1000人にも及んだと言われる。

しかし、北面には検非違使を多く含んでおり、白河院は検非違使庁の本来の指揮系統である別当を通さずに直に検非違使に指示を与え、故に検非違使庁が形骸化すると云うこともあり、院政期の特色のひとつとされる。
平正盛・平忠盛親子はこの北面の武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。

北面の武士の在籍者

最初の北面の武士と言われるのは竹内理三『武士の登場』によると以下の3名。

藤原盛重:「御寵童」あがり。
1088年(寛治2)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では1102年(康和4)4月25日以降検非違使在職が確認できる。
ただし藤原北家藤原良門流の出であり生粋の武士とはいえない。

源重時:清和源氏で北面四天王といわれた。

源季範:文徳源氏で、摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠としていたことから坂戸源氏ともいわれる。
「牧」は武士団の拠点である。
保元の乱に登場する源季実は次男。

それ以外では、1119年(元永2)の晩秋から行われた白河法皇の熊野詣の供人、から見ると、
平正盛:伊勢平氏でこのとき正五位備前守。
この直後に鎮西平直澄追討の功で従四位下となる。

平貞賢:惟茂流越後平氏。
平維茂の子平繁貞の祖孫。

平盛兼:伊勢平氏盛兼流。
平正衡の弟・平貞季の孫で、平正盛から清盛への流れとは別流である。
保元の乱、治承・寿永の乱に登場する平信兼の父。

源近康(親安):源季範の弟(坂戸源氏)

この他、白河が天皇時代からの護持僧であった法務権僧正・東寺一の長者で興福寺権別当範俊なども詰めていた。

1129年(大治4)年に白河法皇の死去のあと、引き続き鳥羽院・待賢門院に仕えたのは
平忠盛:先の平正盛の子で、平清盛の父、このとき正四位下備前守
平為俊:前駿河守 白河法皇の男色の相手の「御寵童」あがり。

藤原資盛:安芸守、藤原貞嗣流
源佐遠:大夫尉とあるので五位、文徳源氏、源資遠(資道)とも
藤原盛道(通):前述の石見守藤原盛重の子。
検非違使

平盛兼:検非違使(前述)
源季範:前述の文徳源氏(坂戸源氏)
源近康(親安):前述の文徳源氏(坂戸源氏)

鳥羽院政期の北面武士の出身者としては、他に次の武士などがいる。
佐藤義清:秀郷流で平清盛と同年代。
1140年(保延6)出家し西行と名乗る。

源義康:1152年検非違使
遠藤盛遠:のちの文覚

鎌倉時代以降

後鳥羽天皇時代に、西面武士も設立された。
承久の乱では西面武士とともに戦闘に加わり、乱の後西面武士は廃止されたが、北面武士は残された。
その後、徐々にその規模は縮小し単なる御所の警備隊と化し、さらに室町時代・織豊時代・江戸時代と変遷するにしたがって警備隊の機能すら失い、近世で最も御所に兵火が迫った禁門の変においても全く登場する事がなかったが、家柄を表す名目として明治維新まで存続した。

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