国造 (Kuni no miyatsuko (regional governor in ancient Japan))

国造(くに の みやつこ・こくぞう)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つである。
訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

概要

ヤマト王権の行政区分の一つである国の長と言う意味で、この国がしめす範囲は、令制国が整備される前の行政区分であるためはっきりと判明していない。
元来、その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。
また国造の定員も1人とは限らず、一つの国に複数の国造がいる場合もあったようである。
ヤマト王権への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族がヤマト王権に服したときに、そのまま国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていた。
そのため軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。
国造には、東国の国造のように部民や屯倉の管理なども行っていたり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、紀国造などのように外交に従事したりしたことなどが分かる。
また、筑紫の国造のように北九州を勢力下に入れ、ヤマト政権に反抗する者もいた。

国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もある。
しかし、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていない。

大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。
また、国造が治めていた国は整理・統合、あるいは分割されていき、律令国に置き換えられていった。

9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(「先代旧事本紀」巻10)がある。

国造本紀考
文久元年(1861年)の栗田寛著作の国造本紀考に、国造本紀という文献の来歴や偽書の指摘、国造各々の詳細な解説が記述されている。
国造本紀は、珍重な書物で一般に広く普及したものではないという指摘がある。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造
主な新国造

出雲国造 - 出雲大社の最高神職として、現人神のように信仰を集めた。
南北朝時代に千家・北島の両家に分裂したが、現在も出雲大社社家として存続。

紀伊国造 - 日前神宮・国懸神宮社家。
平安時代前期と江戸時代中期に後嗣を欠いたことがあったが、女系相続により辛うじて家を維持した。
現在は藤原姓。

社家として系譜を伝えた国造家

阿尺国造(安積国造) - 福島県郡山市・社家の安藤家。
安積国造家の末裔であるとして安積姓を名乗る。

石背国造

武蔵国造

伊豆国造

尾張氏

熊野国造

角鹿国造

但島国造

丹波国造 - 京都府宮津市・籠神社(このじんじゃ)社家の海部家。
現宮司は第82代丹波国造を称する。

凡河内氏

賀陽国造

三野国造

沼田国造 - 沼田神社社家。
古代には、現在の広島県三原市の沼田(ぬた)地域を支配していた。

億岐国造

宇佐国造

阿蘇国造

日向国造

因幡国造 - 宇倍神社の神主であった伊福部氏は因幡国造を名乗っていたが、実際の国造は因幡氏(因幡国造氏)であり、伊福部氏はこの一族から分れた支流に当る。

[English Translation]