地頭 (Jito (manager and lord of manor))

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。
地頭職という。
守護とともに設置された。

平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。
在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。
また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

概要

(頼朝花押)
下 伊勢国波出御厨 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久
右、件所者、故出羽守平信兼党類領也。
而信兼依発謀反、令追討畢。
仍任先例為令勤仕公役、所補地頭職也。
早為彼職可致沙汰之状如件。
以下。
元暦二年六月十五日

以上は、惟宗忠久を波出御厨(伊勢国)地頭職に補任する内容の源頼朝による下文。

幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)という。
いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。
地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。
所領を巡る紛争(所務沙汰)の際には、幕府の保証する地頭の地位だけでは必ずしも十分ではない場合もあり、地頭の中には荘園領主・国司から荘官、郡司、郷司、保司として任命される者も少なくなかった。
つまり地頭は、幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていたと見ることもできる訳である。
実際に、幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあった。
むしろ、幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。

しかし、地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなかった。
そのため、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などをとおして荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。
具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。
地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭にとって多大な利益をもたらすことが多かった。
そして、この制度により地頭は荘園・公領の事実上の支配権を握った。

それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)が行われることもあった。
中分には、両者の談合(和与)で決着する和与中分(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分(したじちゅうぶん)があった。

地頭は、居館(堀内:ほりうち等と称した)の周辺に直営地を保有していた。
平安~鎌倉期の慣習では、居館は年貢・公事が免除される土地とされており、それを根拠として、地頭は居館の周辺を免税地として直営するようになった。
この直営地は、佃(つくだ)、御作(みつくり)、正作(しょうさく)、門田(かどた)などと呼ばれ、地頭の従属民である下人(げにん)や所従(しょじゅう)、又は荘民に耕作をさせていた。
この直営地からの収入は、そのまま地頭の収入となった。

以上のような地頭請・下地中分・直営地の拡大は、地頭が荘園・国衙領の土地支配権(下地進止権)へ侵出していったことを表す。
当然、荘園領主は地頭の動きに対抗していたが、全般的に見ると地頭の侵出は加速していった。
こうした流れは、地頭による一円知行化へと進み、次第に荘園公領制の解体を推し進めたのである。

地頭は元来、現地という意味を持ち、在地で荘園・公領の管理・治安維持に当たることを任務としていた。
多くの地頭は任務地に在住し、在地管理を行っていた。
しかし、有力御家人などは、幕府の役職を持ち、将軍へ伺候しなければならず、鎌倉に居住する者が多かった。
そうした有力御家人は、自分の親族・家臣を現地へ派遣して在地管理を行わせていた。
親族に管理させた場合、御家人(惣領)とその親族(庶子)との間で所領を巡る相論が発生することもあり、親族に地頭職を譲渡するケースもあった。

地頭の在地管理のあり方を見ると、荘園領主と異なる点が見られる。
地頭は武士なので、紛争などを暴力的に解決しようとする傾向があった。
著名な紀伊国阿弖河荘(あてがわのしょう)百姓訴状は、百姓が地頭の非法のせいで年貢(材木)納入が遅れたことを荘園領主に釈明した文書である。
地頭が百姓を強引に徴発した様子、抵抗すると「耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って、尼にしてしまうぞ」と脅した様子などがよく記されている。
また、「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉もある。

発生

地頭は元々、平安時代中期頃から、土地のほとり、すなわち「現地」を意味する語として使用され始めたが、そのうち、現地で領地を支配する有力者、又は荘園を現地管理する荘官職、公領を現地管理する郡司、郷司、保司職を表すようになった。
平安末期の平氏政権下では、平氏が所領の現地管理者として家人の武士を地頭に任命した事例がわずかながらも見られたが、その実態や職務はよく判っていない。

平氏政権に対抗して、関東に独自の支配権を確立した源頼朝の武士政権(後の鎌倉幕府)は、依ってきた武士(すなわち御家人)を地頭に任命することで、自らの支配権を強めていった。
また、御家人の多くは、荘園の荘官、公領の郡司、郷司、保司であり、荘園領主(本所)や国司(特にその筆頭官としての受領)の家人・被官としての地位しか与えられていなかった。
しかし、関東を実効支配していた頼朝政権に地頭職を補任されることにより、在地領主としての地位を認められたのである。

ところで頼朝政権は当初、関東の私的な政治・軍事勢力に過ぎなかったが、平氏政権との内戦(治承・寿永の乱)を経るに従い、後白河天皇を中心とする公権力(朝廷)から徐々に東国支配権を認められていき、政権の正統性を獲得していった。
1185年、頼朝政権が平家を滅ぼした直後、頼朝政権の一員だった源行家・源義経が頼朝へ反抗姿勢を見せ始めると、同年11月に頼朝義父の北条時政が上京し、後白河側と交渉を行い、その結果、頼朝側へ、行家・義経追討を名目として荘園・公領から兵糧米を徴収する職(=地頭・守護)の設置が勅許されることとなった(文治の勅許)。
このことは、『吾妻鏡』(幕府の正史)及び『玉葉』(内覧・九条兼実の日記)に記録されている。
しかしながら、両者の記述は断片的かつ食い違う箇所があるため、このとき公認された地頭・守護の職務範囲等については議論が分かれている。
なお、鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説が提出されているが、そのうち、地頭・守護の設置は幕府の支配権が全国的な広がりを持つに至った非常に重要な画期であるとして、学界では最も多くの支持を集めている。

頼朝傘下の地頭・守護の公認に対しては、当然ながら荘園領主・国司(=公家)からの反発があり、地頭の設置は平家没官領(平氏の旧所領)のみに限られるようになった(この限定の経緯についても諸説分かれている)。
しかし、後白河上皇が1192年に死去すると、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。

発展

1221年の承久の乱での勝利により、鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。
これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住していった。
これを新補地頭(しんぽじとう)といい、それ以前の地頭は本補地頭(ほんぽじとう)と呼ばれた。
また、新補地頭の給分を定めた規定を新補率法(しんぽりっぽう)といい、その内容は、以下の通りであった。

田畠11町当たり1町を、年貢を荘園領主・国司へ納入する必要のない地頭給田とする。

田畠1段当たり5升の米(加徴米)の徴収権を新補地頭へ与える。

山野河海の収益は、地頭と荘園領主・国司が折半する。

地頭の検断により逮捕された犯人の財産の3分の1が、地頭へ与えられる。

というものだった。
ただし、土地の慣習・先例がある場合は、新補率法に優先した。
なお、後に新補地頭を兼ねた本補地頭が、本補地頭としての給分も新補率法に合わせようとする両様兼帯の問題も生じた。
新補地頭として西日本へ移住した御家人には、安芸国の毛利氏・熊谷氏、豊後国の大友氏、薩摩国の千葉氏・渋谷氏などがおり、かなり大規模な移住だったため、「日本史上の民族大移動」と評する論者もいる。

室町期

鎌倉期の守護は、軍事・警察権の行使が主な任務であり、経済的権能は付与されていなかった。
そのため、在地の地頭が積極的に荘園・国衙領へ侵出することができていた。

しかし、室町期になると、守護に半済や使節遵行の権利が付与され、守護の経済的権能が一気に拡大することとなった。
守護は、獲得した経済力を背景に、国内の地頭やその他の武士・名主・有力者層を被官として自らの統制下へ置こうとし、国内への影響力を強めていった。
そうなると、鎌倉期以来の地頭という地位は意義を失い、従来の地頭は、他の武士・有力名主らと同様に国人(こくじん)へと変質していき、室町中期までに地頭は名実ともに消滅した。

江戸期の地頭職

島津氏の支配下の薩摩藩及び日向国の伊東氏支配地域では「地頭」の名称が残り、江戸時代に薩摩藩や飫肥藩となっても存続した。
但し、前時代の「地頭」とは似て非なる物である。

歴史

戦国時代、島津氏支配地や肝付氏支配地であった薩摩国や大隅国では「地頭」の名称が残った。
戦国期の地頭としては肝付氏支配地の内之浦地頭薬丸兼将や島津忠良の支配地の川辺郡 (鹿児島県)地頭奈良原長門守の名が「諸郷地頭系図」に登場する。
その後江戸時代に薩摩藩となっても存続した。

当初、地頭は現地に移住していた。
この勤務形態を「居地頭」という。
寛永年間以降は藩の重役が兼務する事が多くなり、任期中も鹿児島城下に居住した。
これを「掛持ち地頭」という。

明治初期にも本職は残った。
長年にわたって日向国都城市領主であった北郷氏が、鹿児島市内に移された後、地頭として三島通庸が送られ、不平士族をなだめるのに辣腕を発揮し、廃藩置県までその職を務めた例がみられる。
また、明治期の伊集院郷の地頭には郷士が採用された。

概要

役職内容は江戸幕府の関東付近の代官とほぼ同じである。
薩摩藩では薩摩藩家臣の領地である私領と藩主直轄地に分かれるが、地頭は直轄地の方に配属された。
江戸幕府の代官との一番の違いは、薩摩藩の大半の郷の地頭は家老や側用人、勘定奉行や町奉行等の薩摩藩重役が兼務していた点である。
また、上は一所持から下は一代小番(御小姓与や新番が10人扶持級以上の役職についてなったもの)までの城下士が就任した。

郷での実際の行政は上級郷士により運営されていた。
また、一部の郷では地頭代が派遣された。
なお「掛持ち地頭」の勤務形態になって以降、基本的には地頭は城下に滞在し行政は地元の郷士に任せていたが、藩法上、地頭は就任から4年~5年以内に1回目の現地視察を義務づけられていた。
また藩重役には私領主も就任していたので、例えば吉利(現在の日置市日吉町吉利)領主小松清猷が清水郷(現在の霧島市国分清水町他)地頭職に就任したように、私領主が地頭を兼任することもあった。
ただし、居地頭制が存続した長島 (鹿児島県)や甑島の地頭は他職との兼職ではなく「無役之移地頭」と呼ばれ、席次は船奉行と物頭の間に置かれた。

「三州御治世要覧」によると、小姓与格や新番格の武士が地頭に就任すると、家格を「代々小番」に昇格させることができる特権があった。
通常、小姓与格や新番格の武士が10人扶持以上の役職に就任すると「一代小番」に昇格することが出来たがこれは本人一代限りの昇格であり、子孫は元来の家格のままであった。
更に、世襲の代々小番に昇格するには側役以上の役職に就くか、三代続けて10人扶持以上の職に就く必要があった。
しかし、地頭を兼務すると一代で代々小番に昇格できた。
また、後任の地頭が決まらない地は「明所」と呼ばれ、大番頭職の管理下に置かれた。
但し、出水郡や志布志町、伊集院町といった重要な郷に関しては明所とせずに他の郷の地頭が兼任した。
例えば島津久風は加世田郷地頭時代に二度出水郷地頭を兼務している。
なお、この場合、島津久風は『加世田郷地頭兼出水郷地頭』ではなく、『加世田郷地頭及び出水郷預かり(『差引』と表記される場合も)』となる。

飫肥藩

飫肥藩においても、地頭職の名称が残った。
とくに重要な地頭職は清武町地頭であり、飫肥藩東北の要である清武における藩主代理ともいえる職であった。
天保13年(1842年)の飫肥藩分限帳では、清武地頭の他に、酒谷地頭や北河内地頭、油津港地頭、大堂津地頭などが散見できる。
なお、地頭は薩摩藩同様に城下士より任命された。
清武地頭は馬廻から出たが、その他の地頭は中士である中小姓や下士である徒士からも出た。

当初、清武地頭は宝永2年(1705年)から正徳 (日本)3年(1713年)まで伊東織部祐全が就任した以外はほとんど河崎氏が就任していたが、享保9年(1724年)5月に長倉善左衛門が就任して以後は河崎氏以外が就任した。

[English Translation]