大政所 (Omandokoro)

大政所(おおまんどころ)
日本の貴族社会において、摂政・関白の母親に対して、天皇の宣旨によって贈られた呼称。
「大北政所」の略称。

一般的には、豊臣秀吉の母、仲(なか)を指す。
本項で詳述。


大政所(おおまんどころ、永正10年(1513年) - 天正20年7月22日 (旧暦)(1592年8月29日))は、戦国時代 (日本)・安土桃山時代の女性。
本名を仲(なか)といい、豊臣秀吉・豊臣秀長・日秀・朝日姫の生母である。

経歴
大政所というのは本来「大北政所」の略で、摂政・関白職にある者の母親への尊称であるが、現代では彼女一人を特定して指すことが主である(従一位)。

永正10年(1513年)、尾張国愛知郡 (愛知県)御器所村に鍛冶屋を営み、武家でもあった関兼員の娘として生まれたとされる。
関氏は刀鍛冶を業とする一族である。
実際の生年は永正13年(1516年)とする説もある。

織田信秀の足軽大将を勤めた木下弥右衛門(木下昌吉・中村弥助)のもとに嫁ぎ、日秀院と秀吉を生む。
しかし、夫がある戦で戦死すると(実際は病没)、信秀の同朋衆・水野昌盛(竹阿弥)と再婚した。
その間に、秀長と朝日姫を儲けた(秀長と朝日姫の父については弥右衛門説と竹阿弥説の両方がある)。

晩年の大政所
天正13年(1585年)、秀吉が関白になったのに際し大政所と呼ばれるようになる。
翌天正14年(1586年)、秀吉が徳川家康に上洛を勧めるがうまくいかなかったため、朝日姫を正室として、大政所を人質として三河国岡崎に送った。
その結果、家康は上洛に応じたため、大政所は約1ヶ月で大阪に戻ることができた。

秀吉は長浜城主となった時に母を城に迎えているが、終生母を大事にしたことは有名である。
また、嫁である高台院との仲も非常に良かった。
さまざまな逸話から、彼女が賢明な女性であったことが伺える。

子の朝日姫・秀長に先立たれた後、天正20年(1592年)に聚楽第で没した。
齢80(もしくは77)。

[English Translation]