悪党 (Akuto)

悪党(あくとう)とは、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語であるが、日本の歴史においては中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を悪党と呼んでいる。
本項では日本史上の悪党について詳述する。

発生

史料における悪党の語の初出は 『続日本紀』 霊亀2年5月21日条(716年)の勅に見える「鋳銭悪党」であるが、2例目は12世紀後半の「占部安光文書紛失状案」(永万元年(1165年)3月21日付)まで遙かに下る。
しかし、その後は悪党の語が頻繁に検出されるようになる。

12世紀は中世の社会経済体制である荘園公領制がようやく確立した時期であるが、12世紀後半に見られた悪党の用例はいずれも荘園・国衙領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者を指して用いられていた。
例えば、安元元年(1175年)に東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らが、東大寺の文書において悪党とされていた。
この例が示すように、荘園領主や荘官が維持していた支配体系に対し、荘園・公領の外部から侵入ないし妨害しようとした者が悪党として観念されていた。

鎌倉時代に入ってからもこうした状況に大きな変化はなく、13世紀後半の文永年間(1264年-1275年)まで、本所(荘園領主)側から見て外部からの侵入者・侵略者を悪党と呼ぶ傾向が続いた。
悪党紛争の実態は、本所一円地同士または本所一円地と地頭層との所領紛争であり、一方の本所から見た悪党とは、その紛争相手たる本所一円地の領主だったのである。

12世紀から本所は悪党活動に悩まされてきたが、悪党は他領へ逃亡するなど、本所による追捕から巧みに逃れていた。
本所はしばしば幕府へ悪党追捕を要請していたが、本所同士の紛争は本来、朝廷の管轄であるとして、幕府は悪党追捕に消極的だった。
13世紀前半に幕府が制定した御成敗式目第32条は、盗賊・悪党の所領内隠匿を罪科と定めているが、幕府には積極的に悪党を鎮圧する姿勢は特に見られなかったのである。
しかし、正嘉年間(1257年-1258年)に入り、飢饉の深刻化による悪党活動の激化を受けて、幕府は悪党を夜討・強盗・山賊・海賊と同等視することに決め(正嘉2年、鎌倉幕府追加法320条)、その鎮圧にようやく乗り出した。

変化の背景

その一方で、13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まっていた。
12世紀末以来、武士階層を基盤とする鎌倉幕府は、数度の戦乱を通じて所領を基盤たる武士階層に再配分し、武士団の持つ自己増殖欲求に応えてきたが、宝治元年(1247年)の宝治合戦により得宗専制が完成して政治的安定が実現すると、所領再配分の機会となる戦乱の発生自体が見られなくなった。
ここに至り、惣領・庶子への分割相続により自己増殖を繰り返してきた武士団は分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行していった。

単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営を進めていった。
この過程で、庶子を中心とする武士階層の没落が発生するとともに、本所(荘園領主)と在地武士との所領紛争が先鋭化していったのである。

荘園支配の内部に目を向けると、武士による侵略を防ぐために本所は荘園支配の強化に乗り出していたが、在地で荘園支配の実務にあたる荘官は自らの経営権を確立しようとしていた。
ここに本所・荘官間の対立を惹起する条件が出揃っていたが、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を激化させていった。

以上に見られる武士階層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動の活発化をもたらした。
さらに同時期の元寇もこれらの諸矛盾をさらに増大させ、悪党活動の活発化を促したのである。

展開

外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている。
諸国を旅する芸能民や遊行僧などが悪党的性格を持つとされていたのも同様の理由からだと考えられている。
蝦夷、海民、芸能民、遊行僧らはいずれも荘園公領制的な支配体系の外部に生きる漂泊的な人々であり、支配外部にいることを示す奇抜な服装、すなわち異形の者が多かった。
網野善彦は、これらの「悪党」が13世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説いた。

支配体系外部からの侵略者のみを悪党と呼ぶ状況に変化が生じたのは弘安年間(1278年-1288年)のことである。
この時期には荘園支配内部の対立関係がついに顕在化し、本所に対する荘官(在地領主)層の抵抗活動が抑えられなくなり、本所と対立した荘官・在地領主層は本所から悪党と呼ばれ始め、本所との所領紛争を展開していった。
武士階層に目を向けても、単独相続などにより所領を失った無足御家人が旧領に残留し、新地頭の支配を妨害して悪党と呼ばれる事例が発生していた。
これらの状況は、内部の者も「悪党」として扱うことを示しており、観念の非常に大きな変化の現れであった。

この段階において、本所と対立した荘官層には、上に挙げた漂泊的な悪党も含まれていたと考えられている。
彼らの中には、各地を往来しながら交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積し有徳人と呼ばれる者もいた。
そうした有徳人が経済力を背景として荘官に補任され、所領経営に乗り出す例もあったのである。
また、在地の荘官と対立した本所は、荘官に頼らず、独自に年貢物資を運搬する流通経路を確保する必要に迫られていたが、ここで年貢物資流通を担ったのが漂泊的な悪党なのであった。

13世紀後半以降、悪党は畿内・東北・九州などで活発に活動し、御成敗式目で禁止されている悪党と地頭の結合など見られるようになった。
悪党の活動は支配体系の流動化を招き、幕府はこれに対応するため、13世紀末から悪党鎮圧へ積極的に取り組み始めた。

元々、本所一円地における警察権・司法権は本所の所管であり、朝廷が裁定することとなっていた。
しかし、悪党の著しい横行により本所は幕府へ鎮圧を強く要望していった。
そこで、1290年代前半になって確立されたのが次の鎮圧手続きである。
まず本所が朝廷へ訴えを起こし、朝廷の召喚に被告人(悪党)が応じない場合は、違勅があったとして朝廷から幕府へ検断を命じる。
このとき幕府が受ける命令を違勅綸旨または違勅院宣という。
綸旨・院宣を受けた幕府は御家人2人を使節に任じた(両使)。
両使には、任務遂行のため、守護不入とされている本所一円地への入部が許されており、さらに本所側へ下地遵行を指示する権限が与えられていることもあった。
悪党追捕のために始まったこの手続きは、室町時代の使節遵行権の根源となった。

この時期の著名な悪党が、12世紀から14世紀にかけて東大寺領黒田荘(伊賀国)で活躍した「黒田悪党」大江氏である。
12世紀から代々と同荘下司職を勤める大江氏は、13世紀後半に黒田荘への支配権を強化しようと画策し、東大寺と対立してついに悪党と呼ばれるようになり、最終的には東大寺の要請を受けた六波羅探題に鎮圧された。
しかし、代わって同荘荘官職についた大江氏一族もまた、年貢納入を行わないなど東大寺との対立を深め、供御人と称して朝廷と直接結ぼうとし、これを鎮圧するはずの伊賀国守護、同御家人らと結んで、黒田荘を実質的に支配するに至った。
結局大江氏は六波羅探題に再び鎮圧されたが、ともかくも、この事例は経済的な成長を果たそうとしている在地領主が荘園領主の抑圧を受けたときに悪党となることを示した典型例である。
このほか、鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成(河内国)、赤松氏(播磨国)、名和長年(伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。

悪党は南北朝時代 (日本)にも活動しているが、内乱が終わった14世紀後半、悪党活動によって荘園公領の支配体系が弱体化し、守護や国人らによる本所一円地(荘園)への侵略が進むとともに、本所側の対抗力が衰えてしまうと、本所の支配を侵す悪党という実態は、次第に見られなくなった。

研究史

悪党概念は、1930年代に中村直勝によって提起され(『荘園の研究』 1939)、戦後になると石母田正(『中世的社会の形成』 1946)らによってその姿が明らかにされていった。

戦後の歴史学において、悪党は封建領主のなかで位置づけられていたが、網野善彦、佐藤進一らが社会的基盤を農業以外に置く手工業民や芸能民などに着目した中世史像を提示すると、悪党の存在もそれらと関連付けて論じられるようになり、20世紀末からは海津一朗らによって元寇や徳政令等の社会変動における悪党の位置づけが試みられている。

[English Translation]