源氏長者 (Genji choja)

源氏長者(げんじちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。
原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。
一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが。
しかし、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。

概要

源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていた。
初代は左大臣源信_(公卿)とされている。
ただ、淳和院への別当設置と奨学院そのものの設置はともに元慶5年(881年)のことであり、当時の嵯峨源氏及び源氏全体の筆頭公卿であった源融またはその子の源昇が両院別当と源氏長者を兼ねた最初の人物であったと推定されている。
もっとも、奨学院自体は皇別氏族全体の施設でありその別当は源氏長者のそれとは異なり、平氏や在原氏などを含めた全体の長者であった可能性もある。
つまり源氏長者と奨学院別当及び淳和院別当の同一性は必ずしも保持されていなかった可能性もあることになる。
(なお、『姉言記』(文治4年6月30日条)には源通親の話として過去に源氏を外祖父に持つ者が院別当(両院もしくは奨学院)に補された例があり、代表例として藤原扶幹や藤原行成らを挙げている。彼らが源氏長者を兼ねていた可能性もあるが明証は無い)。
更に当初の源氏長者は嵯峨源氏の公卿に限定されており(『西宮記』巻13)、嵯峨源氏最後の公卿である源等までは同氏が独占していた(ただし、途中に藤原扶幹の院別当兼務期を挟む)。
その後、嵯峨源氏を外祖父とする重明親王及び源高明(醍醐源氏)が源氏長者に任じられた。
以後は源高明に代表される醍醐源氏と源雅信に代表される宇多源氏がかわるがわる補任された。

やがて村上源氏の源師房(関白藤原頼通養子)が源氏長者となり、以後は村上源氏のなかでも師房子孫の嫡流とされた源雅定の子孫に継承され、久我家・堀川家・土御門家・中院家の四家から選ばれることとなった。
(例外として、源通親の没後に弟の唐橋通資・唐橋雅規親子が任じられた例や亀山天皇の時代に久我通光の子中院雅忠(中院家とは別家)が任じられた例、四家に適任者がいないという理由で後醍醐天皇の時に中院家の分家である北畠家の北畠親房が、同じく光明天皇の時に久我家の分家である六条家の六条有光が任命されている)
正応元年(1288年)に久我通基が初めて源氏長者宣下を受ける。
室町時代に堀川・土御門両家は断絶し、中院家が衰退したことと北畠親房や六条有光の任命に危機感を抱いた久我長通の政治工作によって村上源氏における久我家の源氏長者独占が確立した。

武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初である。
足利将軍家と徳川家康に始まる徳川将軍家(清和源氏の新田氏の流れと称す)は武家のまま源氏長者になっている。
ただし、義満以後、源氏長者に就任した足利将軍は足利義持・足利義教・足利義政・足利義稙の計4名、長者の宣旨を受けなかった事実上の長者(淳和奨学両院別当のみ務めた。ただし、宣旨を受けたとする説もある)足利義尚を含めても5名であった。
実態としては清和源氏足利家と村上源氏久我家が交替で務めていた(在任は前者の方が長い)。
戦国時代 (日本)にはいると再び村上源氏久我家から源氏長者が任ぜられている。
徳川家康以降は、源氏長者は徳川家が独占した。
ただし、岡野友彦は、幕末維新の混乱期に一時久我建通が源氏長者となったのではないかと推測している。

律令制度が崩壊した後の源氏長者は源氏のなかの最高権威に過ぎなかったが。
一方、徳川家康はその権威に着目し、藤原姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることにより日本国王に相当する権威を手に入れて公家と武家の掌握に利用した、という足利義満=日本国王論に依拠した説がある(岡野友彦)。
しかし、通説とはなっていない。

[English Translation]