貴族 (Kizoku (nobles))

貴族(きぞく)とは、血統や門地の故に社会的特権を認められている人やその一族。
またはその身分。
多くは世襲されるが、特別な功績により新たに貴族になることもある。
君主の一族を特に「皇族」「王族」「公族」などと称し、これを貴族に含めない用語法もある。

貴族の概念と範囲

まず貴族と一口に言っても、国によってその意味する範囲が違うので注意が必要である。
特に日本の場合、貴族とは明治以降は華族とほぼ同義で、上は皇族と区別され、下は士族と区別されるある身分階層(公侯伯子男)を指すのが一般的である。
しかしながら、西洋では貴族(英:Nobility、仏:Noblesse、独:Adel)という語の中には、皇帝、国王、王子なども含まれ、それゆえ、皇族、王族と貴族を区別するという用語法はない。

また士族は、日本では明治以降は華族の下に位置づけられた旧武士階級を意味した。
しかしながら、そもそも、「士」という語は、古代中国(周代)では貴族の称号の一つであり、大夫の下に位置し、大夫とあわせて「士大夫」とも呼ばれた。
それゆえ士族とはまさしく貴族を意味していたのである。

それゆえ、世界的に見れば、貴族とは平民の上に位置し、世襲により各種の特権を有する広い階層を指し、用語法によっては皇族、王族、僧侶階級なども含む場合がある。
そのため、こうした概念の違いに注意する必要がある。

日本の貴族

日本における貴族の歴史を概観すると、ヤマト王権期の豪族層に由来する古代貴族がまず形成された後、平安時代前期には従来の古代貴族に代わって藤原氏や源氏が上流貴族層を占めていった。
中世前期にこれらを母体とする公家層が形成された。
公家層は中世後期以降、経済的実権と政治的実権を喪失しつつも、明治維新期まで存続した。
一方、中世には、武士階級の最上位層(武家棟梁)が貴族化する動きを継続して見せており、近世に入ると家格の固定に伴って将軍家や大名層が武家貴族を形成した。
明治維新期に至り、公家貴族と武家貴族を中心とする上流階級が華族へと移行したが、太平洋戦争での敗戦に伴い華族制度は廃止され、日本の貴族は消滅した(ただし、皇族は除く)。

古代

日本における貴族の登場は、7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。
このとき貴族の母体となったのは、豪族階層であった。
7世紀以前の倭国(日本)では、ウヂと呼ばれる同族集団が形成されていたが、そのウヂ集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。
当時のヤマト王権は、ウヂ集団 豪族たちの連合政権としての性格も有していた。
しかし、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として再編成されていった。

大宝 (日本)元年(701年)に制定された大宝律令のもとで、旧来の豪族は位階に応じて序列化された。
三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。
「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。
これら「貴」「通貴」及びその一族を貴族と呼んでいる。
「貴」と「通貴」とでは与えられた特権に著しい差があった。
そのため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられている。
貴族は経済的特権として、国家から多大な収入が与えられていた。
五位以上には位田、四・五位には位禄、三位以上には位封、さらに太政大臣・左右大臣・大納言に任官すると職田・職封が給与された。
このほか、位分資人・職分資人なども与えられた。
これらの収入は、三位以上と四・五位の間に大きな格差が設定されており、さらに大きな格差が五位以上と六位以下の間に設けられていた。
また身分特権として、位階に応じて子孫が位階を得る蔭位制度があった。
蔭位により、貴族は子孫へ各種特権を世襲することが容易となっていた。

日本の律令制の特徴は、貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。
唐律令では、天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していた。
しかしながら、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。
これは、中国より日本の方が貴族の役割を重視していたことを表す。

太政官において国政審議に参与する貴族らを議政官(公卿)というが、律令制が開始した8世紀の代表的な議政官氏族を挙げると、阿倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏、石川氏らであった。
慣例的に各ウヂから議政官となるのは1人だけとされており、議政官は氏族代表者会議としての性格を有していた。
ところが、8世紀30年代ごろから藤原氏議政官が複数現れるようになると、藤原氏議政官が増加の一途をたどるのに対し、他氏族の議政官は次第に減少していった。

貴族社会全体でも、藤原氏の増加と他氏族の没落が見られた。
こうした傾向に拍車がかかったのは、8世紀末-9世紀初頭の時期とされている。
義江明子は、ウヂが持っていた在地性・両属性がこの時期に失われ、ウヂの再編が起こったとする。
宇根俊範は、桓武天皇は従来と異なる方針で諸氏族の改賜姓を行い、このため貴族社会における各氏族の序列が大きく変化し、源平藤橘を頂点とする新たな貴族社会秩序が生じたとする。

平安時代初期の議政官を見ると、藤原氏のほか、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏などのように、奈良時代には見られなかった氏族が急速に台頭していた。
880年ごろには、議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。
藤原氏は摂政・関白の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。
以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流(摂関家)は、天皇の外戚、すなわちミウチとして代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、10世紀から11世紀にかけて摂関政治と呼ばれる政治形態を布いた。
ただし、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。
摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて陣定などの公卿会議を通じて行なわれていたのである。

先述したとおり、9世紀後半から10世紀にかけての時期に、上流貴族が藤原氏・源氏にほぼ限定されると、他氏族は中下流貴族として存続する道を模索し始めた。
10世紀初頭、王朝国家体制への移行に伴い、律令機構や権能を特定者へ請け負わせる官司請負制が行なわれ始めた。
そうすると、機構・権能の請負いに成功した中下流貴族は、その機構・権能を家業と位置づけ、それを世襲する家業の継承を行なうようになった。
例えば、武芸・軍事を家業とする中下流貴族は「兵(つわもの)の家」と呼ばれ、押領・追捕・追討活動に従事する軍事貴族となり、武士の母体となっている。
この官司請負と家業の継承は、11世紀以降、貴族社会に広く見られるようになった。
中下流貴族は、家業の継承や受領職の獲得などにより生き残りを図ったのである。
家業の継承を通じて、家産(家の財産)の蓄積が進み、貴族社会に「家」概念が登場することになった。

摂関政治、官司請負、家業の継承が始まった10世紀前半は、その後の貴族社会において最重要事項とされた朝廷儀式・宗教儀式の標準作法が形成された時期でもある。
非常に多数の年中行事からなる儀式は、細部まで作法・様式が決められており、儀式を滞りなく執り行うため、『西宮記』『北山抄』などの儀式書も作られた。

中世

貴族社会に登場した「家」概念は、11世紀後半に天皇にまで及び、天皇家の家督者が上皇として政務に当たる院政の開始をもたらした。
上流貴族の間にも「家」概念が浸透していき、荘園所領が家産として集積されるとともに父系継承された。
それまで、貴族社会では財産の母系継承が通例だったが、12世紀ごろから父系継承が慣例化していく。

11世紀ごろまで、貴族の主たる経済基盤は、奈良時代と同様、国家から支給される位田・位封等であり、荘園からの収入は多くなかった。
11世紀後半から12世紀にかけて、荘園が急速に増加するとともに、それに対応して国衙領が再編成され、荘園公領制という中世的収取体制が成立した。
また並行して知行国制が成立すると、貴族の経済基盤は、荘園および知行国へとシフトしていった。

院政の開始により、貴族社会における家の登場に至ったが、家内部の主導権争いも徐々に現出し始めていった。
この家内部の争いが最も先鋭化したのが12世紀中葉の保元の乱である。
貴族社会の政争が武力解決されたことは、乱で活躍した平清盛一族の急速な台頭をもたらした。
平清盛は中流貴族の軍事貴族に過ぎなかったが、続く平治の乱を経て、上流貴族の仲間入りを果たした。
しかし、平清盛一族は治承・寿永の内乱で滅亡し、軍事貴族に出自する源頼朝政権が勝利した。
しかしながら、源頼朝は上流貴族とはならず、東国政権(鎌倉幕府)の支配者(鎌倉殿)となることを選択した。

武力をもって朝廷に仕える鎌倉幕府が武家と呼ばれるようになると、従来の貴族は、政務一般で朝廷に奉仕する文官、すなわち公家と呼ばれるようになった。
東国を支配する幕府を武家政権とするのに対し、中央の朝廷を公家政権ともいう。
12世紀から13世紀にかけて公家社会の中で家格の固定化が進み、家格によって昇進できる官職が定まっていた。

鎌倉幕府の勢力圏は当初東国に限られ、朝廷の勢力圏である西国まで及んでいなかった。
しかしながら、承久3年(1221年)の承久の乱の勝利によって幕府が優勢となり、朝廷の監視や皇位継承者の決定への参与、西国への進出により支配権を広めていく。
朝廷(公家政権)はその後も存続してはおり、時には幕府(武家政権)と共同で政治問題の解決にあたったが、徐々に政治・統治能力を失っていくこととなった。

鎌倉時代の貴族の主要な収入源は、平安末期と同様、荘園所領及び知行国であった。
しかし、この時代は武士である地頭が、その武力を背景として貴族の荘園所領を侵食していった。
室町時代に入ると、守護に強力な権限が与えられたため、地頭に代わって守護による荘園侵食が著しくなった。
こうして貴族による荘園・公領支配は次第に失われていき、室町中期の15世紀後半までに荘園公領制はほとんど崩壊してしまった。
貴族は中央(京)に在住し、地方の荘園・公領からの収入が京進されるのを待つのが室町初期までの通例だった。
しかしながら、それ以降は代官を直接荘園に派遣したり(請負代官制)、さらに自ら直接荘園に下向して支配に当たる例すらあった。

また、京都に基盤を置く室町幕府の開始とともに、公家政権の機能も幕府へと移っていく、足利義満執政期に公家政権は政権としての機能をほぼ失った。
政治権力も経済基盤も失った貴族階層は、消滅するには至らなかったものの、室町中期から戦国時代 (日本)にかけて特に困窮を極めた。

近世

近世においては、江戸幕府の成立以降、戦国時代にほぼ無秩序化した身分階級の再構築が図られた。
貴族階層に対しては、幕府から禁中並公家諸法度が制定され、公家社会は幕府の統制を受けるようになった。
公家社会では、鎌倉時代以来、家格が定まっていった。
しかしながら、江戸時代になると鎌倉時代以来の公卿を旧家、安土桃山時代以降に成立した公卿を新家とし、公家家格の再編成が行なわれた。

公卿などの上流貴族は3000石から数百石が扶持されていたが、中下流貴族は数十石程度の扶持しか与えられなかった。
このため、貧困生活を送った家も少なくなかった。

一方、長らく流動的であった武士階級においても、社会の安定化に伴って、武士各家の家格が固定されていき、上流武士階級を世襲していった将軍家や大名層は、いわゆる武家貴族を形成するに至った。

近代

明治2年(1869年)、明治政府は新たな貴族階級として華族制度を創始した。
華族は、元皇族、公家、大名、明治維新時の勲功者から構成されていた。
華族には身分上・財産上の特権が与えられ、明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が制定されると、貴族院 (日本)議員となる特権も与えられた。

しかし昭和22年(1947年)、貴族制度の禁止と法の下の平等を定める日本国憲法の施行とともに、華族制度は廃止され、日本における貴族身分は終焉を迎えた。
ただし例外として、貴族制の一種である天皇制は保全された。

古代ローマの貴族

共和制ローマでは市民は貴族(patricius)と平民 (plebeius)の2つの階級に別れており、当初は政治は貴族が握り、元老院議員を始めとして執政官(コンスル)は貴族が独占していた。

しかし、やがて平民の力が強まり、護民官が創設され、執政官にも平民が就くようになった。
共和制末期には、両者はほぼ同等となり、貴族にはわずかな特権が残っているだけだった。
派閥名として平民派、貴族派と使われたりしたが、この呼び名は実態を表しているわけではない。

帝政ローマに入ると、従来の貴族に加えて、帝国に勲功のあったものに新たに貴族の称号を与えるようになった。
また、帝政ローマの地方官名(duces、comes)が後のヨーロッパの公爵、伯爵の語源となっている。

詳しくはパトリキを参照

中国の貴族

貴族 (中国)を参照。

朝鮮の貴族

両班を参照。

琉球の貴族

琉球の位階を参照。

ヨーロッパ・ロシアの貴族

ヨーロッパの封建貴族はゲルマン系、特にフランク王国の制度が基礎になっている。

また爵位の呼称については日本の五爵を当てはめているため、爵位の項も参照のこと。
ドイツの貴族は「フォン(von)」または「ツー(zu)」、フランスの貴族は「ド(de)」を名前に付けた。

フランク王国における地方官が、後に伯爵となる。

国境地帯の地方官が辺境伯で、後に侯爵となる。

上記以外の豪族で強力なものが後に男爵と呼ばれる。

ドイツでは、ゲルマン部族制が残っており、広大な地域を領有する部族長がデューク (称号)となる。
他の地域では王族などで広大な領地を与えられたものが公爵となっている。

当初、伯爵より下の位で副伯と呼ばれたものが子爵となる。

騎士は当初は騎馬で戦う戦士の名誉称号だったが、やがて貴族の称号を持たない者の称号となった。

一方、北イタリア等の都市国家(ヴェネツィア、フィレンツェ等)は共和制ローマの貴族の衣鉢を継いでおり、世襲で元老院議員となる者や、金や功績により新たに元老議員に選ばれた者などが貴族に当たる。
しかし、やがて多くの都市国家で実力者が僭主(シニョーレ、signore)となり、さらにローマ教皇や神聖ローマ皇帝から爵位をもらって小公国を作るようになる(例:フィレンツェのメディチ家→トスカーナ大公)。

近世に入り、王権が強化され中央集権化が進むと、封建貴族は支配地を失い宮廷貴族となり、王の役人や軍事的、政治的功績があった者が新たに貴族に任命されるようになった。
イギリスにおいても現在の貴族の大部分は、この時期に新たに任命されたものである。

近代の市民革命により、多くの国で貴族の称号は廃止されるか、特権を持たない名前だけになった。
王制を維持している国(イギリス、オランダ、ベルギー、デンマーク、スペイン、スカンディナヴィア3国等)では若干の特権が残っているが、ほとんどは形式的なものである(会社員や公務員勤めをしている侯爵家当主さえいる)。
また王制は廃止されているが、貴族制度を存続している国(イタリア、ポルトガル)もある。
こちらもまた若干の特権がある。
Genealogisches Handbuch des Adelsやカテゴリー(CategoryAdelsgeschlecht)などを参照。
また人名一覧に貴族の一覧があることがある。

[English Translation]