陰陽師 (Onmyoji)

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)とは、古代日本の律令制下に於いて中務省の陰陽寮に属した官職の1つである。
陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮及び地相などを行う方技(技官)として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀全般をつかさどるようになった職掌のことをいう。
中世以降は、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。
連声せずに「おんようじ」と発音されることもある。

陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足

全ての事象が陰陽と五行思想の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の夏、殷王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦、易、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(漢・隋)から直接、ないし朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来した。

当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、602年(推古天皇10年)に日本における陰陽道のパイオニアとも言うべき存在となった観勒が百済から来日し、聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に諸学を講じると我国の国政に大きな影響を与えるようになった。
初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために607年(推古天皇15年)には先進文明国である随に向けて遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土ないし寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶ないし学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。
諸学の導入が進むと、日本においては『日月星辰の運行・位置を考え五行思想相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。

7世紀には、壬申の乱の際に自ら栻(ちょく)を取って占うほど天文遁甲の達人で陰陽五行思想に造詣の深かった天武天皇が、676年(天武天皇4年)に「陰陽寮」や日本初の占星台を設けた。
685年(天武天皇13年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなど、陰陽五行思想はさらに盛んとなり、718年の養老律令において、中務省の内局である寮 (律令制)としての陰陽寮の設置が明文化され、これに技官として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常任されることが規定されると、神祇官の龜卜と並んで公的に式占を司ることとなった。

大陸伝来の技術を担当する方技だけに、各博士や陰陽師には、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命されている。
特に、後の663年(天智2年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官している。

陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星術、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼や呪術は全く行わなかったが、朝廷において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。

律令官制としての陰陽寮の機構と陰陽師の職務

陰陽寮には、事務官である行政官として、

陰陽頭

陰陽寮長官。
陰陽寮を統括し、天文・暦・風雲・気色をのすべてを監督して、異常発生時には外部に漏れることなくこれを記録密封し極秘に上奏(天文密奏)、暦博士が作成した新年の暦を毎年11月1日までに調進(御暦奏)、また都度占筮及び地相の結果を上奏する職務。
定員1名。
官位は従五位下。

陰陽助

次官。
陰陽頭の補佐業務を行った。
定員1名。
従六位上。

陰陽允

判官。
寮内を糾見し書類の審査など事務全般の管理を行った。
定員1名。
従七位上。

陰陽大属

上級主典。
公文書の記載・読上げなどの記録実務を行った。
定員1名。
従八位下。

陰陽少属

下級主典。
陰陽大属を補佐して記録実務を行った。
定員1名。
大初位上。

技官である方技として、

天文博士

天文道の主担当者。
天文の気色を観測して異変があれば部外に漏れぬようこれを密封するとともに、修習生である天文生10名を指導する教官。
定員1名。
正七位下、陰陽諸道の中では天文学が最も難しいとされていたため、他の博士よりも位が高く設定されている。

陰陽博士

陰陽道の主担当者。
陰陽生10名を指導する教官。
定員1名。
正七位下、天文博士と同様に高い位に設定されている。

陰陽師

占筮(吉凶を占うこと)・地相(方位を観ること)の専門職。
定員6名。
従七位上。

暦博士

暦道の主担当者。
暦の作成・編纂・管理を担当し、暦生10名を指導する教官。
定員1名。
従七位上。

漏刻博士

時間管理の主担当者。
漏刻(水時計)の設計・管理を指導し、実際に守辰丁を率いて漏刻を稼動させ、その目盛りを読み時刻を管理する職務。
2交代制のため定員は2名。
従七位下。

陰陽道学生として、

天文生

定員10名。

陰陽生

定員10名。

暦生

定員10名。

これらは官人の子弟にとどまらず、民間人からの登用も可能であった。

他に庶務職として、次の職務が配置されていた。

守辰丁

漏刻博士の管理の下で漏刻を測り、毎時ごとに鳴り物(太鼓、鐘)を打ち鳴らして時報を知らせる実務担当者。
定員20名。

使部

各省共通に配置された庶務職。
定員20名。

直丁

各省共通に配置された労務職。
定員2名。

陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。
また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ばれることもあった。

律令においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん一般官僚から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置ないし陰陽諸道に関する文献について、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じられていた。
このため、律令制が比較的厳しく運営されていた9世紀初頭の平安時代初期まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理された。

その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発令されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになった。

内部事務一般を管理する判官である陰陽允は、正式に陰陽大允・陰陽少允のダブル配置となった。
定員はそれぞれ1名で、官位は双方同格の従七位上に設定されたが、陰陽小允は陰陽大允を補佐する立場をとった。

本来は員外配置である「権職(ごんのしょく)」(律令本来の定めにはない運用法で、当初の実態は該当職務を行わないにもかかわらず該当職と同等の待遇とする暫定名誉職位で、正式な○○職任命者以外に任命された『権(ごんの)○○』と呼称する○○職待遇のことであったが、後に常設化されると正職官と同等かそれに近い権限を持つようになった)が、常態化された。

次官職である「助」の員外配置である陰陽権助が、正職位の陰陽助と同様従六位を与えられる常設職となって陰陽頭の補佐を行うようになり、実態として陰陽助はダブル配置となった。

方技(技官)においても、各博士に「権職(ごんのしょく)」を置き、天文権博士・陰陽権博士・暦権博士・漏刻権博士が常設化された。
しかし、官位はすべて各正博士よりも一段階低く設定され、その実務は正博士を補佐する立場をとった。

大学寮の修業生(学を修め大学寮に残って博士を目指す者、現代における大学院修士課程ないし博士課程に相当)の運用にならって、天文得業生(定員2名)、陰陽得業生(定員3名)、暦得業生(定員2名)が、各博士職や陰陽師職の公認候補として設置された。

庶務職においても、陰陽史生(おんみょうのししょう)(定員不明)が設置され、文書の複写や寮内で稟議書を届けて回る伝令として用いられた。
本来律令で定められた使部の一部が転用されたとする説や、新規に職制として設置されたとする説があるが、現存する記録が不充分でその実態は明らかにされていない。

律令制下における陰陽師の待遇の変遷

一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。
ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下人あった。

律令制定当初は、方技である各博士や陰陽師には、もっぱら先進各国から来日した渡来人の学僧が任命されていたが、修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材が登用された。
これは、出家に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、かつ僧籍にある者に対して還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)を能動的に強要するには勅令をもってしか考えられず、このような勅令を乱発することもはばかられることから、俗人官僚に陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとの目的によるものである。

当初は四等官(行政官)と方技(技官)は厳密に区別して任命されていたほか、7世紀後半まで、技官である各博士ないし陰陽師に任命された学僧が就任する際には勅令によって還俗していた。
ただ、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになっている。
ただ、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である「官位相当」の原則によって方技の職制のままでは位階を上げることが出来ないため、「権職(ごんのしょく)」(定員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。
また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。
いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。

しかし、838年を最後に遣唐使が廃れた(894年を最終回の遣唐使とする説もあるが、この回は大使・菅原道真が中止を勧上して実際には行われなかったとする説が有力)ことにより、大陸本土の唐から優秀な渡来人を招聘する機会が失われた(朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかった)。
わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技(技官)の育成を続けた結果、9世紀の平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足も見られた。
陰陽寮で唯一の殿上人相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一ポストとして利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇ポスト化する傾向を見せた。
この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家へのポスト充足を主目的とするものであった。

後に10世紀に入って、後述の賀茂氏と阿倍氏の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。
また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが朝廷中枢に重用されたため、賀茂氏と安倍氏は、その実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。
特に安倍氏は後の11世紀には従四位上格にまで取り立てられるようになり、12世紀の室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家の家格にまでなり土御門家を名乗るようになった。
その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。

平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師のカリスマ化

9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊である御霊信仰が広まった。
悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。
讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった藤原鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合された。
このため陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。
例えば、9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩などは古神道に由来するものである。
さらに、藤原北家が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。

仁明天皇・文徳天皇の時代(833年‐858年間に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら「九条殿遺誡」や「九条年中行事」を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。
この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える「讖緯説(しんいせつ)」(周期的予言説)による災異改元が取り入れられて901年(延喜元年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化がさらに進んだ。
あわせて、公卿の藤原師輔や漢文学者の三善清行など、陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。

やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制がさらに緩むと、堂々と律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行した。
すると陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。

10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・賀茂保憲親子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。
そして賀茂保憲が、その嫡子の賀茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。
このため、賀茂氏・安倍氏からのみ陰陽師が輩出されることとなり、安倍晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は賀茂氏と阿倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占した。
さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマな精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。
特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。

また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満などをはじめとするカリスマ民間陰陽師が多数輩出した。

11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。
平安末期の源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代 (日本)の混乱や両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した。

武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落

12世紀後半の平安時代末期には、院政に際して重用された北面の武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、1192年に武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。
源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。
幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。

3代将軍源実朝暗殺後は、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉征夷大将軍は執権北条一族の傀儡将軍として代々皇族や公家から招かれるようになり、招かれた将軍らは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。
4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉市の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ存府の鎌倉から吉方であるとされた現在の横浜市鶴見区 (横浜市)所在の秋田城介善景の別屋敷にまで移転(陰陽道で言う方違え)してから工事の開始を命じた。
他にもその後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の変の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。

ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下のいわゆる関東八平氏から全国の地域地盤に由来する後に「国人」と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。
鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率ないし領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。

後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開き南北朝時代 (日本)が到来すると、京に幕府を持ち北朝 (日本)を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代征夷大将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった。
(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある。)

陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂氏が通名とするようになった勘解由小路家(居宅が勘解由小路にあったことから室町時代に賀茂氏が名乗るようになったもので、藤原北家日野家流や斯波氏流の勘解由小路家とは異なる)を名乗った賀茂氏の勢力は徐々に凋落し、賀茂在方が「暦林問答集」を著すなど活躍したものの、室町時代中期には勘解由小路得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至った。
しかし安倍氏だけは上手く立ち回り、安倍有世(安倍晴明から14代の子孫)は、征夷大将軍足利義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。
その後も、安倍有世の子安倍有盛から安倍有季・安倍有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍氏を堂上家の家格にまで躍進させ、16世紀の安倍有宣の代には勘解由小路家(旧賀茂氏)の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占した。
さらに安倍有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門家(あくまで地名から取ったもので、村上源氏の流れをくむ源通親系土御門家とは異なる)を通名とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。

しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三家四職も細川氏を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。
さらに守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。
16世紀前半の天文_(日本)期には、安倍有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄村納田終に疎開して、その子土御門有春・孫土御門久脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなかった。
若狭にとどまって泰山府祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂氏傍流の勘解由小路在富を召しだして諸々の勘申を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。
その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立する中、太閤豊臣秀吉が養子の関白豊臣秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩が豊臣秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなった。
さらに秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は一旦完全にその実態を失うこととなった。

律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧にともない、陰陽寮ないし官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。
このため、中世・近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占いなどを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。
また、この頃にかけて、南北朝時代 (日本)に安倍晴明に仮託して著された「刃辛内伝(ほきないでん)」が、牛頭天王(ごずてんのう)信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。

また、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求するエセ神官・僧侶や穢多・非人集団も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルトでうさんくさいイメージが広く定着することとなった。

この頃以降、一部の定まった住居を持たず漂白する民間陰陽師は、他の漂白民と同じく賤視の対象であった。
彼らは時に「ハカセ」と呼ばれた。

近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆

豊臣秀吉が没し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓郡鶏冠井村・寺戸村、葛野郡梅小路村・西院村、紀伊郡吉祥院村にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰した。
1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。
また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂氏・安倍氏)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂氏の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。

この動きを得て、土御門氏勢力は、1682年に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、再興家の幸徳井家賀茂氏を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功した。
さらに各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、さらにその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。
戦時の武家社会ではほとんど顧りみられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている。

各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原流、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。

1684年には、幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。
しかし、約70年後の1755年、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。

その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。

近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師

大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。
その後、明治政府が西洋式の太陽暦の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、土御門晴雄本人の死去によりこの案が取り上げられることはなかった。

逆に、陰陽寮からの改暦提案を受けた明治政府首脳の間では、「富国強兵を目して西洋的な先進技術の導入を進めるにあたり、陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心となる畏れが強く、陰陽道を排除すべきである」とする西洋文明導入論者に加え、「天皇親政を行うにあたっては、臣下が天皇を差置いて実権を行使する蛮行や、天皇の行動を指図するような非礼はまかりならず、ましてや日本古来の神道があるにもかかわらず外国(中国)由来の技法である陰陽道がまかり通ることなど許容しがたい」とする純神道論者ないし攘夷論者の主張が共鳴して、陰陽道を排斥する意見が多数を占めた。
また土御門晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭土御門晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。

その期に乗じて明治政府は1870年(明治3年)に陰陽寮を廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学・天文台、ないし海軍 (日本)の一部に移管した。
旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。
1872年(明治5年)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。
古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。
土御門家は陰陽諸道をつかさどる官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道をさらに神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。

明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。
ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。

第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。
占術や暦については九星占術を基本とする東京都上野区の神宮館による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。

現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道ないし陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道ないし陰陽師の権威の面影はなく、土御門家が旧領若狭国の福井県おおい町(旧名田庄村)に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽家として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみである。

飛鳥時代以前の陰陽家

恵慈 えじ ? - 623年(推古天皇31年)

飛鳥時代、595年(推古天皇3年)に高句麗から来朝し、聖徳太子の仏法の師となる。
仏法を広め、翌596年(推古天皇4年)に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が建立されると百済から帰来した僧・慧聡とともに「三宝の棟梁」としてこれを守った。
仏法にあわせて陰陽五行思想をもたらしている。
615年、聖徳太子が著した仏教経典三経義疏(法華経・勝鬘経・維摩経3経の注釈書)を携えて高句麗へ帰国。

観勒 かんろく ? - ?

602年(推古天皇10年)10月に百済から帰来した学僧。
日本における初代僧正。
天文地理書・元嘉暦の暦・陰陽五行思想にもとづく遁甲方術・摩登伽経を伝え、聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じた。

陽胡玉陳に暦法を、大友高聡には天文を、山背日立には遁甲方術を授けたとされている(日本書紀・巻第二十二)。

その元嘉暦の暦本は聖徳太子により604年に官暦として正式に採用された(政事要略)。

日本の陰陽道のルーツとなるパイオニア的存在で、後に「先在した五芒星文化勢力を陰陽道で封じるために観勒像を鎮座させ」られるほど、初代僧正としての貫禄を見せている。
当初は飛鳥寺、親百済派であった蘇我氏由来の法興寺、元興寺に居を構え、639年(舒明天皇11年)に大和国百済川のほとりに百済大寺を開創した。

後に建立された陰陽寮や占星台の址である天武天皇時代の飛鳥池遺跡からは1998年に「天皇…丁丑年(677年)…観勒…」と、その名を記した木簡が出土している。

陽胡玉陳 やこのたまふる (やこのふみびとのおやたまふる) ? - ?

漢出身で推古朝に隋から帰来の帰来人とも、大隅国の豪族出身者とも言われている。
後の陽胡史(「やごのふみびと」、「やこのふひと」とも)の祖。
602年(推古天皇10年)、観勒に師事して暦を修め、日本における暦道の祖となった(日本書紀・巻第二十二)。

大友高聡 おおとものたかさと (おおとものすぐりたかさと) ? - ?

後漢(東漢)出身、推古朝に帰来。
大伴村主高聡とも。
602年(推古天皇10年)、観勒に師事して天文を修め、日本における天文道の祖となった(日本書紀・巻第二十二)。

山背日立 やましろのひたて (やましろのおみひたて) ? - ?

山背日並(山背臣日並)とも。
皇族出身者とする説が有力。
602年(推古天皇10年)、観勒に師事して『吉を取り凶を避ける術』とされた兵書の忍術である遁甲を修め、日本における遁甲方術の祖となった(日本書紀・巻第二十二)。

旻 そうみん (そうにちぶん) ? - 653年(白雉4年)

百済からの帰来人で、百済系保守派を代表する人物。
観勒から引継いでの百済大寺寺司。
正式な法名は「僧日文(そうにちぶん)」だが、その縦書きが「僧旻」と誤読されたものが定着した

608年(推古天皇16年)の小野妹子の第1回遣隋使に随行、その後24年間にわたって隋に留学して仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学など広く諸学を修めた。
632年(舒明天皇4年)8月に犬上御田鋤の第1回遣唐使に随行して帰国した。
その後は重用され、親百済派である蘇我入鹿や祭官家の藤原鎌足らに易(周易)を講じた(大織冠伝)。

天文に精通しており、637年(舒明天皇9年)の流星を天狗の吠声と説き、639年(舒明天皇11年)の彗星出現に際しては飢饉の前触れであると説いた。

乙巳の変(いっしのへん)の後、645年(皇極天皇4年・大化元年)から翌年にかけての大化の改新の際には、仏教擁護の国策により「十師」のひとりとして高僧の認定を受けた。
さらに高向玄理(たかむこうのくろまろ)とともに国博士(正式官制ではない諮問機関で天皇側近の政策ブレーン)に任じられ、「大化の改新の詔」をはじめとする諸詔勅・法令・制度等に大きくかかわり、649年(大化5年)には八省百官の制を創案をするなど活躍した。
その後も、650年(大化6年)に白戸国司から白い雉が献上された際、珍鳥出現の祥瑞を中国漢代の緯書の語句と中国の史書に見られる先例を根拠に「帝徳が天に感応して現われた祥瑞であるから天下に大赦するべきである」と孝徳天皇に祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてるべきであるとする陰陽道思想)を上申して取りいれられ、元号が白雉と改められるなど、653年(白雉4年)に病没するまで重用された。

道顕 どうけん (ほうしどうけん) ? - ?

斉明天皇の時代に高句麗から帰来。
「沙門道顕」・「僧道顕」、また「道賢」とも。

仏教そのものに関する活動よりも、式占を用い、主に外交を中心とした政策ブレーンとして用いられた。

日本と百済・高句麗との私的外交記録である日本世記を著した。
現存する書物の中では、初めて「日本」という国号を使用している。

角福牟 ろくふくむ ? - ?

百済の貴族階級の陰陽家。
本国読み「カク・ポンモ(각복모)」。

百済の滅亡・白村江の戦の敗戦により、663年(天智2年)に日本の引揚船に乗って亡命帰来(日本書紀)。
冠位二十六階のうち第18階位にあたる「小山 (冠位)上」を与えられている。

行心 ぎょうじん ? - ?

天智天皇の時代に統一新羅の旧百済地域から帰来。
大津皇子謀反を唆したとして連座被疑者となり、伊豆国に流され更に飛騨国に移された。

法蔵 ほうぞう (そうほうぞう) ? - ?

天武天皇の時代に百済滅亡による戦乱を避けて亡命帰来。

隆観 りゅうかん (たから) ? - ?

統一新羅からの渡来僧行心の子。
伊豆国へ流罪となり飛騨国の寺に移された父から引継ぎ陰陽諸道に通じた学僧となり法名「隆観」を名乗っていたが、大宝2年の飛騨国司の神馬献上にあたり、その祥瑞を得たとの理由で罪を減免され入京を許された(続日本紀)。
その後の朝廷への出仕にあたりっては、還俗して名を「金財(たから)」と改めた。

吉備真備 きびのまきび 695年(持統天皇9年) - 775年(宝亀6年)

奈良時代の公卿・学者で、遣唐使として派遣された際唐から陰陽五行思想を学び、これににかかわる文献を多数持ち帰って、陰陽家としての才能を発揮した。
聖武天皇のもとでそれまでの呪禁師を廃止して陰陽道を採用したり、陰陽道に基づいた大衍暦を採用するなどした。
藤原仲麻呂により左遷されたが、後に仲麻呂の乱を鎮圧した功により 右大臣まで出世している。
藤原広嗣の怨霊を鎮めた話(今昔物語)が知られている。

阿倍仲麻呂 あべのなかまろ 698年(文武天皇698年) - 770年(宝亀元年)

奈良時代の遣唐使に留学生として随行し、猛勉強して唐の科挙(上級官吏候補の公務員試験に相当)に合格し、唐の高官にまで登ったが、日本への帰国を果たすことはなかった。
中国名「朝衡」。
後に安倍晴明が自らの祖であると自称しているが、史実は異なる。

大津首 おおつのおびと(おおつのむらじおびと) ? - ?

統一新羅系の渡来人の家系。
「大津連意毘登」とも。

出家して僧「義法」として活動していたが、統一新羅へ大使として派遣され、帰国後は朝廷に出仕するため勅命により還俗して大津連首の名を賜わった。
後の大津大浦に至るまで、代々陰陽師として重用されることとなった大津氏の祖。

従五位上 721年(養老5年)。
陰陽頭 兼 皇后宮亮(730年頃)。

奈良時代に律令に定める本来業務を行っていた陰陽師

津守通 つもりとおる (つもりのむらじとおる) ? - ?

奈良時代初期の渡来人系の陰陽師。
「津守連道」とも。
持統天皇・草壁皇子に重用され、敵対する大津皇子の密会を公の場で占い暴露した。
その後に大津皇子が詠んだ和歌(万葉集・巻2・第108首)、
< 大津皇子、石川女郎(いしかはのいらつめ)に竊(しぬ)ひ婚(あ)ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)が其の事を占(うら)ひ露はせれば、皇子のよみませる御歌一首 > 『大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し』

(大意)
< 大津皇子と石川郎女の密会の事実が、陰陽師の津守連通の占筮で露見した際に、大津皇子が詠んだ一首 > 『大船(密会という目立つ大胆な行動の例え)に乗れば港湾管理者の監視下(「津を守る人の監視」と陰陽師である「津守通」の掛け言葉)のウラ(港が接する「浦」と「占い」の掛け言葉)で見つかるだろうと重々承知の上で、私たち二人は寝たんだよ』

がよく知られている。

従五位下・美作国守 714年(和銅7年)10月。
従五位上 724年(神亀元年)10月。
(続日本紀・巻第九)

高金蔵 こうきんぞう(しんぜい) ? - ?

高句麗より帰来。
法名は「信成」。

陰陽師 701年(大宝 (日本)元年)-723年(養老7年)。
従五位下(兼・陰陽頭?)。

(角彔)兄麻呂 ? - ?

(角彔)は「角+彔」、別称・「角兄麻呂」。

陰陽博士 701年(大宝 (日本)元年) - 727年(神亀4年)?。
正六位上 721年(養老5年)。

王中文 おうちゅうぶん ? - ?

高句麗出身、法名「東楼」。

天文博士 701年(大宝 (日本)元年) - 720年代(神亀年間)。
正六位上 721年(養老5年)。

金財

新羅出身、和名「隆観」、諡「国看連宅良」。

大宝 (日本)2年 - 神亀元年。

文忌寸広麻呂 ふみのいみきひろまろ ? - ?

漢出身。

陰陽師 700年代(慶雲年間)。

池辺史大嶋 ? - ?

漢出身?。

漏刻博士 700年代(慶雲年間)。

山口忌寸田主 やまぐちのいみきたぬし ? - ?

漢出身。
暦道に長けていたため、算術の大家としても有名で、正六位上 721年(養老5年)、天平2年に、算術啓蒙の師として公式に指名されている。

正六位上 721年(養老5年)。
陰陽暦博士 709年(和銅2年) - 730年(天平2年)。

余秦勝 よのやすかつ ? - ?

百済の亡命王族の子孫。

正六位上 721年(養老5年)。

志我閇連阿彌陀 しがへのむらじあみだ ? - ?

漢出身。
別称「志我閇連阿弥太」。

従五位下 721年(養老5年)- 723年(養老7年)。

楢日佐諸君

漢出身。

陰陽大属 728年(神亀5年)。

余真人 よのまひと ? - ?

百済の亡命王族の子孫。

養老-神亀年間。
従五位下 717年。

谷那庚受 やなこうじゅ(なにわのむらじこうじゅ) ? - ?

高句麗出身。
別称「谷那康受」。
難波連の姓(かばね)を賜る。

720年代(神亀年間)。

礒氏法麻呂

万葉集に太宰府の梅の花を詠んだ歌が見られる。

太宰陰陽師 730年(天平2年)。

難波連吉成 なにわのむらじよしなり ? - ?

高句麗出身。

730年(天平2年)-731年(天平3年)。

高麦太 こうのむぎた ? - ?

高句麗出身。

陰陽師 737年(天平9年)-740年(天平12年)。
兼 陰陽頭738年(天平10年)。

余益人 よのますひと (くだらのあそみますひと) ? - ?

百済の亡命王族の子孫。
「百済朝臣」の姓(かばね)を賜る。

太宰陰陽師 758年(天平宝字2年)-764年(天平宝字8年)。

山上朝臣船主 やまのうえのあそみふなぬし ? - ?

延暦年間に陰陽頭を勤めたという記録のほか、782年(延暦元年)には、氷上川継の謀反(氷上川継の乱)に連座して、隠岐介に左遷(実態は流罪)されたとの記録もある(続日本紀)。

陰陽頭 兼 天文博士 767年(神護景雲元年)-805年(延暦24年)。

百済公秋麻呂 くだらのきみのあきまろ ? - ?

百済の亡命王族の子孫。

陰陽大属 767年(神護景雲元年)。
陰陽允 769年(景雲3年)。

国見連今虫 くにみのむらじいまむし ? - ?

新羅出身。

天文博士 767年(神護景雲元年)。

大津大浦 おおつのむらじおおうら(おおつのすくねおおうら) ? - ?

大津首の孫とされている。
大津皇子(おおつのみこ)の壬生(乳部)であったとの説もある。

陰陽頭 771年(宝亀2年)-774年(宝亀5年)

紀朝臣本 きのあそみのかみ ? - ?

皇族出身。

陰陽頭? 774年(宝亀5年)-782年(延暦元年)。

栄井宿祢蓑麻呂

高句麗出身。
別称「日置造蓑麻呂」。

陰陽頭 747年(天平18年)-783年(延暦2年)。

高橋朝臣御坂 たかはしのあそみみさか ? - ?

皇族出身。

陰陽頭 785年(延暦4年)。

船連田口

百済出身。

陰陽助 781年(天応 (日本)元年)-784年(延暦3年)。

藤原刷雄 ふじわらのよしお ? - ?

752年(天平勝宝4年)藤原清河遣唐使に留学生として随行、陰陽家というよりも禅家としての性格が強い。
帰国後に従五位下に任じられ、「藤原恵美」朝臣の姓を賜った。
764年(天平宝字8年)の恵美押勝の乱に連座して隠岐に流されたが、772年(宝亀3年)に赦免されて再度従五位下「藤原朝臣」を賜って入京を許され、778年(宝亀9年)に従五位上に叙せられた。

陰陽頭 791年(延暦10年)。

路三野真人石守 おみぬのまひといそもり ? - ?

皇族出身とされているが叙せられた官位がおしなべて低目であるため反論も多い。
別称「三野真人石守」(みぬのまひといそもり)。

陰陽助 786年(延暦5年)。

藤原菅嗣

陰陽頭 784年(宝亀4年)-791年(延暦10年)

平安時代前期に律令に定める本来業務を行っていた陰陽師

大津海成

陰陽允(延暦16年)。

菅原世道

陰陽少属(延暦16年)。

中臣志斐連国守

陰陽博士(延暦16年-弘仁元年)。
天文博士(大同3-弘仁元年)。

江沼臣小並

陰陽助(弘仁6-11年)。

志斐人成

陰陽生(弘仁11年)。

廣幡淨繼

陰陽生(弘仁11年)。

道祖息麻呂

陰陽師(弘仁11年)。

藤原竝藤

陰陽頭(天長9年-承和14年)

刀伎直浄浜

暦博士(天長8年)。

土師雄成

太宰陰陽師(天長10年)。

大春日良棟

暦博士?(天長-承和年間)

春苑玉成

陰陽師(承和3-4年)。
遣唐陰陽師 兼 陰陽請益(承和6-8年)。
陰陽博士(承和8-9年)

滋岳雄貞

暦請益(承和6年)。

大春日公守

陰陽頭(承和7年)。

大春日真野麻呂

暦博士(斉衡3年-貞観4年)。
陰陽頭(貞観2-4年)。

笠名高

陰陽権博士(天安元年)。
陰陽博士(貞観13年)。
陰陽助(天安2年-貞観13年)。

中臣志斐連春継

天文博士(貞観2-12年)

良階貞範

陰陽允(貞観4-11年)。

日下部利貞

陰陽大属(貞観5-6年)。
陰陽権允(貞観15年)。
陰陽助(元慶元-6年)。

百済淸貞

少属(貞観5年)。

家原郷好

暦博士(貞観9年-元慶8年)。
陰陽助(貞観14年)。
陰陽頭(元慶元-8年)。

宮道弥益

漏刻博士(元慶元年)。

秦經尚

陰陽権允(元慶元年)。

山村曰佐得道

陰陽博士(元慶3年-仁和3年)。

中臣志斐連安善

天文博士(元慶5年)。

大春日氏主

権暦博士(元慶6年)。

中臣志斐連広守

天文博士(仁和2年)。

葛木宗公

暦博士?。

葛木茂経

暦?。

大春日弘範

平安時代中・後期の呪術的カリスマ陰陽師

滋岳川人 ? - 868年(貞観_(日本)10年)

「滋丘川人」とも呼ばれる、平安時代前-中期、文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した陰陽師。
いわゆる宮廷陰陽道の始祖とされ、式占・遁甲の大家で呪術にも長け、しばしば虫害除去や雨乞いの祭祀を行ったとされる。

「世要動静教」、「指掌宿曜経」、「滋岳新術遁甲書」、「六甲六帖」、「宅肝経」など多数の技術書を著したとされるが、残念ながら現存する著書はない。

今昔物語には、安倍安仁とともに過ちを犯し地神の怒りをかって追われるものの、滋岳川人が得意とした隠形の術で身を隠し逃げ延びることができたいう「滋岳川人、地神に追はるる語」という話で知られる。

陰陽博士 854年-874年。
兼・陰陽権允 854年。
兼・陰陽権助 857年-865年。
兼・播磨国権大掾 861年。
兼・陰陽頭 874年。

弓削是雄 ? - ?

平安時代中期、清和天皇・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師、滋丘川人の弟子。
怪僧と言われた弓削道鏡とは同族で、式占の達人であったといわれている。
藤原有陰に招かれて近江に赴いた際、穀蔵院の使者である伴世継と行き会い、悪夢を見たと言う伴世継が弓削是雄に占ってもらい対策をしてもらって九死に一生を得たという話(今昔物語「天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」)や、陰陽頭在任時に、60歳を過ぎてもいまだに試験に合格せず僧侶の位がなかなか得られない修行者を憐れんで、何とか試験に合格させてやろうと呪術を用いて立会の試験官を排除してしまい、仲の良かった三善清行の一存でその高齢修行者を合格させてやったという話(善家異説)などが知られている。

賀茂忠行 ? - 960年(天徳 (日本)4年)
陰陽允 873年-877年。
陰陽権助 877年-885年。
陰陽頭 885年。

三善清行 みよしきよゆき(みよしきよつら) 847年(承和 (日本)14年) - 919年(延喜18年)

平安時代中期の漢学者。
別称、善相公。
権力に屈しない正義漢であったため出世が遅れたとされる。

本来は陰陽寮生出身の陰陽師ではなく、大学寮で紀伝道を修めた漢文学者だが、天文・陰陽・易学に通じていた。
讖緯説(しんいせつ、周期的予言説辛酉・甲子の年には革令があるとの中国の説)にもとづいて改元を上奏して認められ、元号が延喜と改められて以降、周期的災厄説による辛酉年・甲子年の災異改元が通例となった。

文章博士 900年(昌泰3年) - 910年(延喜10年)。
兼 大学頭、兼 伊勢権介 901年(昌泰4年)。
兼 式部少輔 903年(延喜3年)。
式部権大輔 兼 備中権守905年(延喜5年)。
参議 兼 宮内卿 917年(延喜17年)。
兼 播磨権守918年(延喜18年)。

賀茂忠行 ? - 960年(天徳 (日本)4年)

後に世襲陰陽家の名門となった賀茂氏の祖。
賀茂保憲の父。
安倍晴明の師。
奈良時代に活躍した修験道の開祖・役小角の末裔であると言われている。
940年に平将門の乱・藤原純友の乱が勃発した際、この対策のために時の権力者藤原師輔に、当時は密教の高僧でも知らなかったとされている「白衣観音法」を進上したことがきっかけで重用されるようになった。
陰陽道にかぎらず天文道・暦道など様々な分野に明るかったほか、卜占にもよく通じておりその正確さは有名で、村上天皇が水晶念珠を見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説が残っている(三善為康「朝野群載」)。
早くから嫡男・賀茂保憲や弟子・安倍晴明の才能を見出し育成したことで知られている。

賀茂保憲 917年(延喜17年)-977年(貞元_(日本)2年)

加茂忠行の子で父と並び平安中期を代表する陰陽師のひとり。
安倍晴明および長男賀茂吉平の師、「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と賞賛されるほどの評価を得ていた。
官僚としても出世して陰陽頭にまでなっている。
嫡子の加茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作った。
今昔物語に、弟子の安倍晴明との間で隠された中身を当てる占術試合「占覆」を行った話が収録されているとされ、また「暦林」・「保憲抄」という暦道や陰陽道の技術書を著したとされているが、残念ながらどれも現存していない。

賀茂光栄 939年(天慶2年)-1015年(長和4年)

賀茂保憲の嫡子。
安倍晴明と並び称される有能な陰陽師。
父・賀茂保憲が天文道を安倍晴明に伝授禅譲したために暦道のみを継承することとなり、これが原因で安倍晴明をライバル視していたことが「続古事談」に記されている。
暦道に優れたほか予知能力にも長けており「的中すること掌を返すが如し」と絶賛された。
藤原道長が安倍晴明とともに呼び寄せて頻繁に相談や占術を行わせていたことが「御堂関白記」や「栄花物語」にも記されており、多くの貴人から重用された。

安倍晴明 921年(延喜21年)-1005年(寛弘2年)

後の土御門氏の祖。
遣唐使に参加して陰陽の本場城刑山で伯道上人に学び、帰国すると特殊化・秘伝秘術化した独特の陰陽道を築き上げた。
陰陽道の名典「金烏玉兎集」を著したとも言われているが、伯道上人に教えを受けた際にこれを授けられたという説も多い。
ただし晴明の著作として確認されているのは、晴明の子孫である土御門家に伝わった「占事略决」のみである。
陰陽諸道の中で最も難しいと言われていた天文道に長じ、朱雀天皇・村上天皇・冷泉天皇・円融天皇・花山天皇・一条天皇の6代天皇、藤原道長・藤原実資に重用されて影響力をふるった。
天文博士を勤めた後には陰陽寮を超えて主計権助・大膳大夫・左京権大夫・大国である播磨守などの官職を歴任して「従四位下」まで昇進した。
時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で、極めて謎の多い人物でもある。
セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)という呪符を使い、人形を使って「青龍」・「勾陳」・「六合」・「朱雀」・「騰蛇」・「貴人」・「天后」・「大陰」・「玄武」・「大裳」・「白虎」・「天空」の式神十二天将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとされている。
また、没後かなり早い段階から“鳥が話す言葉を理解できた”、“母は信田の森に棲む「葛葉」という白狐だった”、“両性具有者だった”など、その超人ぶりと特異性をあまりにも誇張した数多くの伝説が残っており、古事談・大鏡・宇治拾遺物語・古今著聞集・今昔物語集・體源抄・日本紀略・権記・平家物語・大江山絵詞・元亨釈書・源平盛衰記・発心集・北条九代記・私聚百因縁集、歌舞伎や文楽の題目信田妻・蘆屋道満大内鑑、仮名草子安倍清明物語、はては近年の夢枕獏による小説や岡野玲子による漫画、数多くの映画化・ドラマ化やゲームのキャラクターなど、中世から近世・現代に至るまであまたの著作の題材として取り上げられている。
1007年に一条天皇によって屋敷址の一部に建立された晴明神社は、一度は焼失したものの復興されて京都市上京区堀川通一条上ル806に現存しているほか、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町には晴明神社の飛地境内としてその墓標が残っている。

安倍吉平 954年(天暦8年)-1026年(万寿3年)

安倍晴明の嫡子。
父同様に賀茂光栄と並び称される陰陽師として藤原道長・藤原実資らに重用され、天文博士・陰陽博士から陰陽助にまで昇進し、位階は従四位上まで取り立てられた。
五龍祭や四角祭を勤め(日本紀略)、藤原道に取り憑いた具平親王の悪霊を賀茂光栄と共に祈祷して取り除いたり(宝物集)、親仁親王出産の際に死去した皇妃嬉子の入棺・葬儀に関する方法を藤原頼道に勧申したり(栄花物語)している。
古今著聞集には医師・丹波雅忠と宴を囲んでいた際に地震を予知したとの詳しい記載がある。

安倍吉昌 955年(天暦9年)? - 1031年(長元4年)?

安倍晴明の2子。
感受性豊かで向学心が強かったため賀茂保憲に目をかけられ、1017年に安倍晴明もなれなかった陰陽頭(おんみょうのかみ)に昇進。
日食を予言したことで知られる。

安倍章親

安倍吉平の子、安倍晴明3代の子孫。
1055年に陰陽頭就任した際、賀茂氏に暦博士を、阿倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めている。

安倍泰成

安倍晴明4代の子孫。
神明鏡では、妖狐・玉藻前と呪術で対決したと言われている。
陰陽頭まで出世している。

安倍泰親

安倍泰成の子、安倍晴明5代の子孫。
藤原頼長や九条兼実に重用されて1182年陰陽頭。
卜占の天才で平家滅亡とその時期まで予言的中させ「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。
肩口に落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。

道摩法師 (?-?)

道摩法師の名でも知られる平安中期の非官人陰陽師。
播磨国(現在の兵庫県)の民間(ヤミ)陰陽師集団出身で、呪術に長けセーマンドーマン(九字を表す縦4本・横5本の格子模様)という呪符を好んで使ったとか、安倍晴明のセーマンドーマンを使って「ドーマンセーマン」と呼ばれるようになった等の説がある。
安倍晴明が当時の関白藤原道長に重用されていたのに対し、蘆谷道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされ、これが両者の永遠のライバルとしての関係を決定づけた。
室町時代の播磨の地誌である「峰相記」には、藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。
歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として描かれることが多い。

道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。
早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16!」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。
観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。
しかし、長持を開けてみると、晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。
この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという話や、遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて「金烏玉兎集」にまとめ上げたといった話が有名である。

阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く残っている。

智徳法師(?-?)

播磨国の僧侶でありながら陰陽道の呪法や占術を用いて金を稼ぎまくったヤミ陰陽師。
今昔物語の、海賊に襲われた船主に同情して陰陽の術を用いて船荷を取り戻した話や、陰陽道を身につけて得意になり、噂に聞く安倍晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて呪術対決に臨んだが、逆に安倍晴明に式神たちを隠されてしまい、陳謝して自分の式神を返してもらうというエピソードで知られる。
人物像や環境設定が酷似しているため、蘆谷道満と同一人物ではないかとの説が有力である。

陰陽道の祭祀概略

陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼もまた一様ではない。
他教との影響関係等も含め陰陽道の儀礼は未だ研究の途上にあるため具体的に述べることは難しい。
伝来当初は所謂呪禁道の影響も強かったであろうと考えられる。
『延喜式』「陰陽寮」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録が見える。
それによれば儺祭(節分・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。
このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで祭文を読むとあるが、この祭文は前半が中国語(漢字)で構成された音読部分であり、後半が祝詞のように万葉仮名の振られた訓読部分となっている。
また、中世の『文肝抄』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなり、状況により使い分けていたようである。

陰陽道の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る泰山府君を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げる事ができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。

陰陽師が用いた道具・呪法など

九字(くじ)

陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。
一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴う。
現在のところ「九字」の初見は葛洪『抱朴子』「登渉篇」とされるが、同書では末尾が「在前」ではなく「前行」となっており、入山時に唱える「六甲秘祝」として呪のみが載る。
したがって九字の呪、四縦五横に切る所作、結印の所作は別個に形成されたものと考えられる。
なお、四縦五横に切る所作自体は道教経典等にも見え古くから存在しているが、結印の所作は見えない。
結印の所作は恐らく我国伝来後、密教或いは修験道が受容する中で付加されたものであろう。

なお、陰陽道における九字では、古いものでは鎌倉期の陰陽道の反閇儀礼を伝える文献に四縦五横に切りながら「朱雀・玄武・白虎・勾陳・帝后(?)・文王・三台・玉女・青龍」を唱えるものがある。
現存する文献では身固や反閇の際に用いられたことがうかがえる。

「急急如律令」

元来は、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令の如く行え」の意。
本来は「急」の字は「ロ(口編)」がつく。
道家が呪文に取りいれたものを陰陽師も用いたものであろう。
なお、密教や修験道においても「急々如律令」の呪は用いられる。

六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)

六壬式占によって吉凶を判断するための道具で、地を表す「輿(よ)」と呼ばれる方形の台座と、天を表す「堪(かん)」と呼ばれる円形の天盤で作られている。
地盤には、二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載され、天盤には十二月将等が記載されている。
天盤の十二月将を地盤の十二支に合わせることで、簡易な計算を行ったのと同じ効果が得られる。
式盤は栻(ちょく、木偏に式)とも呼ばれる。
正しく作成するためには、輿である地盤には雷に撃たれた棗の木、堪である天盤には楓(ふう)にできるコブである楓人を使用する。

渾天儀(こんてんぎ)

天文上の変異知る為に天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した。
特に本来はあってはならない彗星が現れると大災や天変地異が起こるとされた。

呪符・霊符

陰陽師が用いたとされる、種々の紋様や呪文を記載した護符。
俗に「セーマンドーマン」や「セーマンドーマン」と呼ばれる図形を記すものも多い。
他にも「鎮宅七十二霊符」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「六芒星」や、「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。

元来中国で用いられていたものが伝来したものと考えられるが、我国における護符の歴史は未だ解明されていない部分が多く、古くは藤原京跡などから「急々如律令」の呪句を書き付けた呪符木簡等が出土しており、奈良時代にはすでに活用されていたらしい。
古い資料は殆ど残っておらず、たとえば平安当初にどのような呪符が用いられていたか等は不明な点が多い。

太上神仙鎮宅霊符

『太上秘法鎮宅霊符』「鎮宅七十二道霊符」等とも呼ばれる七十二種の護符。
現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられている。
陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容された。
この霊符を司る神を鎮宅霊符神いうが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられている。
玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体であった。
それ故日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えている。
星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われる。

近世には七十二種を一枚に刷った「鎮宅霊符」が各地の妙見宮や霊符社から出され、軸装して祭られていた。
なお、土御門神道の祭神は現在泰山府君、鎮宅霊符神、安倍晴明が主神である。
楠正成や加藤清正なども鎮宅霊符神の熱心な信者であったとされる。

鎮宅霊符神を祭る主な社寺は関西圏に多い。

群馬県:達磨寺

福井県:天社土御門神道本庁

京都府:曙寺(閑臥庵)、行願寺(革堂)、松山不動寺等

大阪府:星田妙見宮(小松神社)、大阪天満宮、報恩院、鎮宅霊符神社(東大阪)、妙法寺(今里)等

奈良県:鎮宅霊符神社(陰陽町)、信貴山成福院等

人形(ひとかた、ひとがた)

形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、それにより患部等を撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習はこれを元としている。
一方で人形に相手の名前等を記し、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど、様々な祈祷儀礼に広く見られる。
丑の刻参りの藁人形が有名。

式神(しきがみ)

陰陽師が使役したとされる使役神を言う。
「識神」「しきのかみ」「式(しき)」とも。
「式神」の解釈は密教の護法童子に似たものであるとか、精霊を使役するものであるとか諸説存在するが、最も有力なのは陰陽道で用いられる「六壬式盤(りくじんしきばん)」に由来するとの説であろう。
陰陽師にとって占具である式盤は最も身近な存在であり、天盤と地盤は合して宇宙そのものを表す。
それ故強大な呪力を持つとの信仰が少なくとも密教側の史資料には散見され、「都表如意輪法」等のように、陰陽道の式盤によく似たものを作成し、一種の呪具と見做し祈祷することで種々の利益を得るとする信仰があった。
そうした資料の中には「式神」を呼び出す旨が記されるものもある。

身固(みがた)め

陰陽道の護身作法の一種。

禹歩(うふ)

足で大地を踏みしめて呪文を唱えながら千鳥足様に前進して歩く呪法を指す。
基本は北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであるが、九宮八卦の九星配置を象って歩くやり方や、片足を引きずりながら歩いて地面に図形を描くといったものもある。
名前の通り、中国の禹が治水のために中国全土を踏破したけっか、遂には足を引きずりながらあるくようになったという伝説にちなんだものである。
魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとしていおり、ドーマンの九字と同様、葛洪に『抱朴子』には薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されていることが起源である。
奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、術を成功させるために行われていた。

反閇(へんぱい)

道中の除災を目的として出立時に門の前で行う呪法。
自分自身のために行うこともあるが、多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。
反閇では最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。
呼び出すときには禹歩を踏む。
最後は6歩歩いて振り返らず出発する。

泰山府君祭

元来は道教の祭祀。

刀禁呪

元来は道教の呪文。

浄心呪

元来は道教の呪文。

浄身呪

元来は道教の呪文。

浄天地呪

元来は道教の呪文。

陰陽師を取り扱った作品

平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルトなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれている。

小説

『陰陽師 (小説)』(夢枕獏)

『帝都物語』(荒俣宏)

『陰陽ノ京』(渡瀬草一郎)

『妖界ナビ・ルナ』(池田美代子) - 琴月綾挿画。

『少年陰陽師』(結城光流)

『女陰陽師』(加野厚志) - 公武合体政策に反目する朝廷勢力が、皇女和宮と徳川家茂の政略結婚阻止のために和宮に瓜二つの女陰陽師・八瀬を送り込むというフィクション。

『封殺鬼』(霜島ケイ)

『レンタルマギカ』(三田誠)

漫画・アニメ

『陰陽師 (漫画)』(岡野玲子) - 夢枕獏の同名小説を漫画化。

『東京BABYLON』(CLAMP)

『X』(CLAMP)

『XXXHOLiC』(CLAMP)

『シャーマンキング』(武井宏之)

『宵闇眩燈草紙』(八房龍之助)

『陰陽大戦記』(ウィズ (玩具) 原作)

『アベノ橋魔法☆商店街』(ガイナックス原作)

『MUSASHI -GUN道-』(モンキー・パンチ原作)

『王都妖奇譚』(岩崎陽子)

『少年陰陽師』(結城光流原作)

『魔法使いの娘』(那州雪絵)

『レンタルマギカ』(三田誠原作)

『闇神コウ~暗闇にドッキリ!~』(加地君也)

映画・オリジナルビデオ

『陰陽師 (映画)』『陰陽師II』(滝田洋二郎監督) - 夢枕獏の同名小説を映画化。

『帝都物語』(実相寺昭雄監督) - 荒俣宏の同名小説を映画化。

『陰陽師 妖魔討伐姫』(熊澤尚人監督) - 安藤希出演。
舞台は現代。

『女陰陽師シリーズ』(九鬼 (アダルトビデオ)製作) - 一部R指定作品を含む。

テレビドラマ

『陰陽師 (テレビドラマ)』(日本放送協会ドラマDモード) - 夢枕獏の同名小説をドラマ化。

『陰陽師☆安倍晴明〜王都妖奇譚〜』(フジテレビジョン系) - 岩崎陽子の漫画をドラマ化。

ゲーム

『久遠の絆』(フォグ)

『遙かなる時空の中でシリーズ』(コーエー)

『豪血寺一族』シリーズ (アトラス (ゲーム会社)) - 一部ステージの背景に描写。
そのステージバックグラウンドミュージックの曲名は「レッツゴー! 陰陽師」。

『東京魔人學園伝奇シリーズ』(シャウトデザインワークス)

『少年陰陽師ゲーム化』

パチンコ

『CRフィーバー陰陽師』(三共 (パチンコ)) - テレビドラマ『陰陽師 安倍晴明』を題材にしたパチンコ機。

その他

現代では「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目にアクセントを置くイントネーションが普通であったと言われている。

昨今の陰陽師ブームに乗って、石田千尋なる人物が自称陰陽師としてテレビ出演等をおこなっているが、その儀礼法は明らかに古神道に準拠するもので、陰陽道に基づいたものであるとは言い難い。
また、関西で活動する播磨陰陽師(神祓衆)・尾畑雁多(おばたかりんど)なる人物が教えるのは武家の流れを組むとも言われる武術を伴ったものである。
これは、播磨陰陽師(神祓衆)が祭祀呪術武術を三位一体とするためだとされる。

プログレッシブなヘヴィメタル楽曲に平安古語を多用した歌詞などを載せ、各地の妖怪伝奇や源義経伝説などを黒髪長髪に平安装束を身にまとって演奏し、日本で初めて能楽堂においてコンサートを行った。
『伝奇ヘヴィメタルバンド』を標榜する陰陽座のリーダー黒猫 (ボーカリスト)は、平安時代末期のオカルティックなイメージを象徴する宮廷陰陽道から「陰陽」の名をとってバンド名に用いた。
同バンドのファンは、安倍晴明ら平安時代中末期の陰陽師が駆使したとされている『十二天将』と呼ばれ、同バンドのファンクラブ名は『式神倶楽部』と呼ばれている。

[English Translation]